私が学生のころは『教養』という学部があって、大学の1年半、理系であっても文系の授業を受け、文系であっても理系の生物や地学を学ばなければならず、バランスのいい人間を形成するため(?)のマスプロ(大講堂での)授業があった。40代の後半、映像記録を作る会社の人(市営地下鉄ができるまでとかオロロン鳥を復活させるためのドキュメンタリーのシナリオ作家)と知り合いになり、話題が突然、『教養ってなんだろう?』というテーマに変わった。『うーん、他人へ寛容さを示せる人?』『どんな話題でもついていける人?』『それは単に物知りな人であって、教養ではないね。知識はなくても情に厚い人は幾らでもいますよ。他人にとってありがたいのは、むしろ情のほうではないか』『昔、知識人という一群の人々がいて、彼らの発言力は絶大で、姿や声を聴くと、知識人ではあろうが教養人にも見えたときがあった』と告白したら『誰?』と聞いたので私は『寺田寅彦、林達夫や渡辺一夫、湯川秀樹、丸山昌男、武谷三男、中野好夫etc』と答えた。
9月17日にも似たようなテーマで書いていて最近、何度も私の頭を教養という言葉がよぎるのはなぜだろうかと考えると、SNSで平気で他人を揶揄する投稿や侮蔑の感情で他人を罰する癖が横行している現実がある。アナログ時代の文化を背負ってきた私にしてみれば、発言は固有名詞(名前がまずあって)次に内容を述べると言うマナーがあった。顔を見せ合っての言論で殴り合いがはじまってもそれはそれで仕方がない、周りの人間が止めるしかない。そういう感覚で生きてきたので、『皆さんどうしたの、匿名で自分の感情を吐き出して他人を傷つけて、人としてどうなの?』と問いかけたい気持ちになるのだ。気持ちの病気に感染しているのではとさえ思う。『うつもどき』という仮称だ。本当の鬱ならエネルギーは外へ向かわず、内攻して自罰へ向かう。
『うつもどき』は自分のことはさておいて、他罰へ走り、みずからを取り戻したと錯覚する。これには終わりがない。話題や対象を変えて繰り返して、文字や言葉の攻撃が続く。ということは多くの国民がプチ鬱状況になっているともいえる。イライラ感やマニュアルどおりの動作をしないと回答が出ない機器類に囲まれた奴隷感(もうこういう感情を失ってるかもしれない)。未来への不安、欲しいものが手に入らない貧困感など原因はあるとは思う。なかでも貧困は、他人への不信を増幅して、自分の人格を徐々に破壊していくこともある時限爆弾だ。敗戦後の日本の記録や映像を見ると『とにかく生きるために食べ物を探す、仕事を探す、闇市で泥棒しても生き延びる、家族に食料』を必死に探す時代にうつ病はほとんどなかった。食べることを基本に生きる動物に近い人間に心の病は遠い。動物は自分に脅威を与えるものと戦うが無用な戦いはしない。生き方において人間は恥ずかしながら動物以下の生き方を最新の文明の機器で周りに迷惑をかけている現在だということだ。




