新型コロナが流行る前に書かれた。(1月5日)

故ディープインパクト 筆者撮影

背負う荷物を責任ある仕事や子供の教育や住宅ローン返済義務、さらに親の介護や配偶者の病気やあれこれの配慮などを考えると、ある人が『生き続けるのは、すごい事業だ』と言ったのもうなづける。そのときは無我夢中で生きてきて、山を越えて後ろを振り返ると、ここまでこれたのは自分たちの若さの勢いだったり、親のお蔭であったりする。多くは実力ではなくて運や偶然の上に努力が加わってるような気がする。

しかし、終わってみると(まだ何があるかわからないが)背中が軽くなったみたいで、貧乏性な私はまた小さくてもいいから小荷物を欲しがっている。小荷物の中身は一体なんだろう。旅に行きたいわけでもなく、ぜいたく品が欲しいわけでもない。酒も飲まず、おしゃべりをする知人が多いから知的な興奮の時間はある。友人から『サリエルの命題面白いよ!』とメールが入れば、返信で『須賀敦子さんのコルシア書店の仲間たち・・素晴らしい日本語で書かれているよ』と推薦する。

ブログテーマに戻れば、相手が重過ぎる荷を背負っていたら、少しこちらが持ってあげるくらいの、言葉だけかもしれないがしようとしている。何でも丸投げだけはしないよう気をつかっているが、それは他人が判断すること、私にはわからない領分だ。なぜこんなことを書くかといえば、重過ぎる荷物にあえいで生きる人たちが私の周りに多過ぎるからだ。もう少し背負う荷物が公平になるような社会の仕組みが円滑に機能しないと相当にヤバイ社会に突入していくぞという直観である。それは自分たちの世代を中心に、相当生きにくい世間をつくってしまったことでもあるという反省だ。生きにくい世間とは、目の前の他人を信頼しないで生きる人々が増えることでもある。それは目に見える人々から目に見えない人々へ、想像力を働かせて生きることでもある。難しいことであるが、自分の足元を掘り下げればいくらでも見えてくる。そのためには、いっときでもいい、自分を捨てる工夫、自我意識を遠方に押しやること、『私が、私が、俺が、俺が・・』から『自分のことは後にする』生き方の模索である。肉料理を前にして、我先に食べる私だから、こんなエラソーなことを実は言えないはずが、ブログなら書いてしまう自己矛盾。情けない。

「鬼滅の刃」札幌市内、上映見送り。

1)札幌から市民が遠くへ行かないよう道レベル、国レベルで指針が出てしまった。札幌市民を嫌わないでくださいね。小学生でのコロナ感染者が出て『鬼滅の刃』は上映一時中止。新千歳空港のそらシネマで「鬼滅の刃」を見に行った。マンガそのものは1冊も読んだことがなかった私であったが感動した。煉獄と鬼との最終決戦は圧巻であった。自然の描き方が丁寧で背景描写が凄いレベルだ。水と空と花と夜がいい。そして無限列車の走る様子だ。次々出てくる壁を乗り越える少年の成長物語だ。大人の男も十分少年の心を持っているので胸にぐっさり来る。山下達郎さんが鬼滅の刃にはまっていると聞いた。『アトムの子』と重なる。。。・どんなに大人になっても ぼくらは鬼滅のこどもさ どんなに大人になってもぼくらはコロナの子どもさ

2)ススキノの感染者が抑えられているが、飲み客は市営地下鉄南北線の麻布駅周辺に場所を移していると理髪師が言っていた。そこから感染者が出ているとも。

会社や学校は引きこもりの場所かもしれない。

6歳から26歳まで学校に囲まれ、27歳から65歳まで会社に所属して、いわゆる勉強といわゆる仕事をしてきて、正直思うのは、学校と職場も考えてみると子供・大人の引きこもりの場所ではないのかという率直な感想である。男女に関係なく。もちろん生活の資を稼ぐため、毎日通勤と通学をしているわけだが、ココロ(精神)の置き所として考えると、自分のデスク前は、自宅のデスク前とどこが違うかといえば、周りに同じ所属する同僚(同級生)という他人がたくさんいる。『引きこもり』という言葉遣いが、違うので混乱する人もいるかと思うが、自宅でブログを書いている自分と会社で何かをパソコンで打ちこんでいる自分で大した心のありようは変わらないことに気づいて書いた次第だ。どこかで自分を誤魔化して生きている気がしてきたのである。自宅でスーツは着ないから、ひょっとしてこのスーツや学校の制服に謎が隠されているのかもしれない。自宅の外と内という勝手な区別をするから、そういう偏見をどこかで植えつけられてきたが、実は内も外もないと考えてみてはどうだろうか。内は外で、外は内でもあると考えると氷解することはないだろうか。それは家族をも他人と考える発想で、外の人間は家族として遇せることでもある。他人とフレンドリーな関係にもすっと入れるわけだ。なぜなら外の人間は内の人間でもあるからだ。なぜ、こんな複雑な思考が出るかといえば、家族間の人間関係が他人関係以上に悪化している気がするので、ここはいったん突き放して外から家族を(自分を含めて)見直しをかけることをしてもいいのではないか、そう思う。違うものが見えてくると思う。私の親戚に元学校の教師が多いので彼らを観察してきて、教室内での威張りようを正月の親戚の集まりでも腕組みをして、睥睨する癖(校長にはなったが)が取れない。たえず他人へ『教えようとする』。なぜだろうと考えると、外での自分をそのまま内に持ってくる。教師(元含めて)親戚が4人集まるとどういうことになるか?全くつまらない会話の連発。教養の片鱗も見えない。私が結局音頭を取り、話題を誘導して場を盛り上げる役回りで40年やってきた。教えられる方は勘弁願いたいという顔をするが、そういう自分も得意分野に入ると同じことをしているわけだ。引きこもりの人と会話するとわかるが、自己都合の話がとても多い。実は教師も同じであるし、サラリーマンやOLも自己都合で生きているから、なあんだ、同じ穴のムジナかというわけできょうのブログ終了