テレビ視聴率について

 

いまやNHKまで、視聴率に民間放送局以上にぴりぴりしているらしい。でも、これってどういう仕組みで毎日、毎週出しているのか?日本には電通系列のビデリサーチ1社しかない。これ自体、独占禁止法に抵触しないか?

日本全国の各家庭のテレビの後ろに器械を取り付けて(もちろん選ばれた家庭ではあるけど)自動的に、どの局を見ているか、瞬時に数値化される仕組みを作ったというのだが。昨夜、読んでいた本にこういう一文があった。「ワイドショーなどでコメンテーターをするとき、たとえばボクシングの亀田兄弟のことをしつこくやると、その瞬間にバーと視聴率のグラフが上がる。やめるとまたバーと下がる。毎分視聴率というんですが、それが目に見えてわかる。テレビ局の人は(民族大移動が目に見える)って言います。」(香山リカ・五木寛之 鬱の力 190p)。

庶民目線でいって、テレビってこんな風に見るだろうかという素朴な疑問がある。私の若いころはアメリカのニールセンという視聴率調査会社があった。調査会社の経営は、テレビ局や広告代理店、メジャスポンサーの定期購読代で成り立つ。ある日、テレビ局の営業部長に飲み会で「ビデオリサーチ社の視聴率調べがあるけど、私の知り合いほぼ50人に私は聞いたけど、誰もそんな機械をテレビに付けてる人はいなかったし、知り合いにもいない。本当に付けて調査しているの?インチキではないの?」と問いかけた。

「やってますよ。月に5000円くらい支払って付けてるはずですよ」と。ニールセンはビデオリサーチに押されて、この分野から撤退を余儀なくされて別な市場調査の仕事に転身したが。ある日、キー局の人が視聴率を上げるために、機械を設置している家へ訪問して「〇〇番組を見てもらうよう」土産を持参して頼みに行きニュースになったことを覚えているだろうか。私はこの事件を「ヤラセ」ではないかと疑ってる。この事件から浮かぶのは、やはり視聴率調査はやっているということだけだ。

私のこの問題の推理はこうだ。各地方地方に、部屋があって、その地区のテレビ全局が一斉に見れる。で、プロが番組を見ながら、数字をアレンジしていく風景だ。番組内容やタレント人気度や放映時間帯でおよその視聴率は推理できる。数字を見ると小数点二けたまで記入してある。いかにも精密を装っている。ラジオの聴取率も似たりよったりと思うがどうだろうか。「私の家のテレビには、テレビ視聴率を測る器械を取り付けてあります」と手を挙げてもらいたいものである。

*テレビ局や広告代理店はGRP(総視聴率)という数値を使い、スポンサーへその数値を提示して、CM代金、CMを流す時間帯のお得感を説得する。最近は視聴率という漢字が視聴質に化けている。見ている視聴者の質(年齢や所得推測を数値化する)を説得材料にしている。さらに最近は視聴占有率という単語が行きかっている。テレビを見ている人の中で何%がこの番組を見ているか。5人の視聴者がいて3人見ていたらその番組の占有率は60%。全体から見れば数%であっても誤魔化せる。インチキ商売に近い。

自分の皮膚の外には出れない。

我々は自分の皮膚に捕らわれている(ヴィトゲンシュタイン)

ヴィトゲンシュタイン哲学宗教日記(1931年2月5日付け)にぽつんと1行書かれてあった。「我々は自分の皮膚の中に捕らわれている。」人間の意識とか悩みとかすべて「自分から一度出て、外から自分を観察できたり、眺められたらどんなに楽になることだろう」と思ったことが私にも何度かある。

彼はマルガリートという女性を愛していた。しかし、予感として彼女とは結婚はできないだろうと思っていた。「彼女が必要としているものは、何より強くそしてしっかりとした杭、彼女がどれだけ揺れようがじっと動かない杭なのかもしれない。そんな力を自分が持つようにあるのだろうか?そしてなくてはならない誠実さを」(1930年10月3日)。自信がなかった。「もしマルガリートを失うようなことがあれば、自分は〈内面で〉修道院に入らなければならないような感覚がある」(同年11月7日)

人間の皮膚は下から新陳代謝されてどんどん新しい皮膚が出てくる。古い皮膚はアカとなって捨てられる。肉体的にはそうであっても、自分の意識から自分が出れない。一度悩みの虫たちに捕まると、夢の中にまで追いかけてくる。「自分の皮膚の中で」の1行は、実は人間が皮膚(自意識)から脱皮できない存在として訴えられているようにも読める。

しかし、皮膚があるから個人は他人と区別されて、男女であれば官能的なタッチも成立するわけだ。タッチが終わると自分の皮膚だけに囲まれた肉体に戻る。人間ひとりひとりは、民族や国籍を超えて「自分の皮膚の中に捕らわれている」存在ともいえる。皮膚的観点でみると平等な世界だ。

 

閑話休題)アメリカの心理学者エドワード・ホールが、個人が個人として安心する距離を本人の周り45センチ以上とした。他人がこれ以上入ってくることは耐えられないのだと。相当なストレスを覚える。これはヨーロッパの個人主義の基本らしいのだが、それが本当だとしたら、首都圏はじめ満員の通勤電車は超異常な風景といえる。0センチから45センチは恋愛上の男女関係や親友の距離だから、痴漢が大発生するのもうなづける。

彼の思索は哲学的な営みを終わらせるために向かっていた。「もし私の名が死後も生き続けるなら、それは偉大な西洋哲学の終点としてのみである。あたかもアレキサンドリアの図書館を炎上させた者の名のごとくに」(1931年2月7日)。彼がノルウエーに住んだり、子供たちの教師になったり、ガーデナーになったり、向かっていった方向を考えると「大自然に自分を置いてみる。自分の皮膚を大自然に開放させる。そこが自分を照らす鏡になってくれる」から。

子どもは何を言い出すか、動きをするかわからない自然である。自然に身を置くと自分の皮膚と自然が一体化する。それが都会に住んだり、他人の中に住むと自分と他人を区別する一線ができる。子供も言葉の習得や学校の学びでどんどん自然が失われてゆく。

自然に身を置くとちっぽけな自分を感じる。自然との付き合いはむつかしい。赤ん坊の泣き声一つでオロオロする。人間界の最弱な絶対権力者が赤ん坊だ。すべて自分の思い通りにしようとする。快不快で生きる。自然から離れた親たちが叶うわけがない。

 

「普通の人になるのが一番難しい」(黒澤明)

黒澤明の言葉で、偶然、彼の娘さんの本を再読していたら、飛び込んできたのが「普通の人になるのが一番難しい」だ。娘さんの子供に黒澤明が「大きくなったら何になりたい」と聞くと「普通の人」と答えたとき「それが一番難しい」と黒澤明は呟いた。

相手より飛びぬけていると見せたり、人と違っているぞと自意識が強かったり、自己中心に保身で生きたり、利害だけで立ち回ったり、そういう生き方ではなくて「貧しい必要はないけど、名もなく清く美しくと昔なら言うのかな、本当にちゃんと生きてる人が普通だと言われる世の中がいい時代だ」。

これに近い言葉で「なぜ、人間は幸せになろうとしないんだろう」とも語っている。映画を撮る意味も、誰でも皆人間は幸せになりたいのに、ちょっとした努力の怠り、ほんの少しの思い違い、もう一歩努力すれば共存共栄の道が開けるのに、愚かにも人間は弱いからそれができない。遠い昔から、人は権力やお金に目がくらみ馬鹿馬鹿しい行為を繰り返してきた。

「何だろう人間って、些細なことで不幸せになっているんだよ。それも自分からそうしている。自分が得することばかりにこだわって、セコセコセコセコしてる奴ばかりだ。なるようにしかならないんだ。人生一度だし、得ばっかりしたいってきりきり舞いするより、味わって生きたらいいのに」。

「普通の人になるのが一番難しい」のは、筆者の在籍した広告の世界が「違いを強調するCMの世界のコピーや現実離れの映像を氾濫させた」「教育現場での個性という言葉の独り歩き」「同じであることが嫌な心性を増やしてきた」など、現代に置き換えればたくさん要因が考えられる。

それは黒澤明の映画作りを支えている根幹「なぜ、人間は幸せになろうとしないんだ」ともつながる。博打で財産を蕩尽したり、一言謝れば済む話をその努力を省いたり、負けてたまるかとすでに負けているのにそれを認めなかったりして苦しんだり、身の丈を超えた高い不動産や車のローンで長い期間苦しんだりする。「愚かにも人間は弱いからそれができない」。

たぶん、そういう生き方を、お手本として大人が子供たちへ見せられれば、派手さはないけど、高級なレストランの食事はないが、ブランドは着れないけど、海外旅行へは行けないが「幸せに近いところに生きている」ような気がする。ある帰りの電車で「言葉遊びに嵩じる親子のゲラゲラ笑う声」を聞きながら、「これだね」と思った。「七足す十はいくつ?」と6歳くらいのお兄ちゃんが妹にクイズ「納豆!」と妹。帰宅電車の中はあちこちニコニコ顔だった。延々と数字と言葉遊びが続く。「静かにしなさい」とお母さん叱る。しかし止めない。そのうちお母さんも本気で笑い出したのである。乗客もね。こんな光景、筆者はしばらく見なかった。幸せが目の前にある。この家庭の雰囲気が電車の中で再現されていた。駅を降りた筆者も機嫌が良かった。