ニセコの風に吹かれてみた

朋子撮影羊蹄山ニセコの風に吹かれた。どうしようもない暑い天気が連日続き、久しぶりのニセコだ。ここは父の故郷で昔は狩太(カリブト)と言って、有名な有島武郎男爵が不在地主で、広い土地を持っていたが、小作人へ開放し、自らは自死した。ニセコという日本で最初のカタカナ駅にして話題になったこと、富士山の高さのちょうど半分の羊蹄山という絶景が広がること、世界中のスキーヤーが絶賛する雪質のスキー場がたくさんあること、豊富な湯量の温泉がニセコエリヤに散在すること、このあたりで育つ人間はどうも反骨人も多そうで、昔(今も)から権力を嫌う風土では信州に似ているかもしれない。信濃毎日(桐生悠々)や自由民権運動も信州が先導を切っていた時代もあったし。厳しい積雪との戦いがそういう性格を醸成したのかもしれない。私の父も偏屈であった。私の宿泊したホテルはヒラフもホテルであったが、オーストラリア人の別荘が軒並みで、テニスをしたり、野外バーベキューを楽しんでる。アメリカンスクールもあるということで、ニセコに開設されるわけは外国人の人口増加だ。ここに水資源を求める中国資本も虎視眈々だ。富士山を半分の高さにすると羊蹄山だ。山の周りは冷たい水がわき出ている。いろんな造形芸術家もオブジェを町々に置いてある。父の母校近藤小学校は、多国籍な学校で英語や中国語も飛び交う。ニセコの役所にはオーストラリア人が働いている。亡き父が見たら町の変貌にびっくりするだろうな。

芸術牛の

以前はジャガイモやビート畑がいまやミルク工房、チーズ工房、アウトドアのラフティングの教室も多い。スノボ大好きな大阪人は冬だけ開くお好み焼き屋もあるらしい。ホテルの従業員も若者が多くてホッとした。若者が簡単に都会へ出てしまう町や村で、公務員以外で雇用が保たれると言うこと、移住者が多いということは、その街の5年、10年先の未来が開けるような気がするからだ。「わ」ナンバーの車「れ」ナンバーの車、キャンピングカーが羊蹄山を眺めながら走る姿を見て、亡き父を思っていた。貧しい親父の少年時代を聞いていたので、、冬は毎日歩くスキーで学校へ通ってたからね。その姿を羊蹄山は黙ってみていたんだ。きょうあなたのひ孫を初めて連れてきました。草原で転がって遊んでいます。高橋牧場の飲むヨーグルトを大好きになっています。

2 本の木

2 thoughts on “ニセコの風に吹かれてみた

  • 2023年7月21日 at 5:42 AM
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    ニセコと言えば仕事で何度か行きました。数年前まではスキー場やホテル関係の仕事でした。最近は殆ど行く機会もありません。一時コロナ禍もありましたが、急激に外国資本の動きが活発になり北海道の中の外国化も進んでいますね。数十年前にはスキー目的で民宿に泊まったりしましたが、今やスノボ全盛でゲレンデも様変わりしているのでしょうね。今でも当時の一番の絶景は、ゲレンデの斜面滑走時に観たピンク色の羊蹄山の夕景です。赤富士などの絵画にもありますが、あの鮮やかな羊蹄はいまでも忘れられません。しかしあの時の日没時の寒さも凄かったですね。スキー板に指がくっついて離れないほどでした。夕方余りにも冷えるので山頂へのリフトに乗るのは断念したくらいです。当時、お隣の大学教授夫婦の長男が私になついて麻雀などしたものですが、東京の大学卒業後、小さな旅行代理店をしている叔母のいるボストンに留学。その後帰郷して、風の噂では何でもニセコのホテルにいると言う事です。東京の大学時代は結構遊び人で、親には相談できない悩みを聞いてあげたりしましたが、当時からホテルマンになりたいと、ハッキリ言っていましたし、アメリカで語学も習得出来て夢がかなったようです。あの当時の若者も今や50歳になりますかね。我が家も引っ越して相当経ちますから、お隣とはお互い疎遠になって久しいですが。

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    • 2023年7月21日 at 8:31 AM
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      狩太がニセコに町名変更したのは正解でしたね。ニセコは親戚のビート畑の草取りを大学時代にして悲鳴を上げました。休憩時間に美味しい水を飲んで見上げたら羊蹄山。癒されますが、父が毎日、この山を見て育った、アル中の父親のために町まで焼酎を買いに行ったことを思うと切なくなります。母親を小さいとき病気で亡くしていますから大変だと思います。レジャーやホテルや外国人居住という明るい話ではなくて、父親の暗い少年時代が真っ先に浮かびます。担任から函館師範へ行くよう推薦されていても「貧しいから」という理由で進学できず、次男なので満州へ渡ることに。いまは札幌から別荘地を求めて住んでいたりイロイロですが、真冬のことを考え、全くスキーをしないので積雪多い所だめですね。昆布温泉はいいのですが。妻がゲレンデスキー大好きでOL時代は泊まりでニセコへ10回は行ったと言ってます。あなたと結婚してスキーゼロだとぼやきます。当時、札幌東区育ちの中学の仲間でゲレンデスキーする人間はいませんでした。贅沢なスポーツだったんです。リフトで私は大けがをするところでした。最後にスキーを上げることを知らず、スキーが下にはまり込んだのでした。

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