10月のコーヒータイム

                         自宅上空を通過する白鳥(10月19日、撮影)

1)雪虫が飛び回り、中山峠を越えるときはスタッドレスを装着しないと車は登れない。私は勘違いが多いが、白鳥は冬にシベリアへ飛んで行くのだと思い込んでいたが、苫小牧のウトナイ湖方面に向かい実は南方面であった。近所の農家の人から「白鳥が畑に降りると、彼らの脚に付いたシベリアの雑草の新種があるから草刈りが大変だ」と白鳥の飛来を嫌っていた。ところで白鳥の飛行形態がV字なのも、いつごろからこの形をしてきたのか?先頭の白鳥は疲れると交代するらしい。子供の白鳥は真ん中にいるのか?上の写真を数えると68羽飛んでいる。

2)近所に「アンビ・ウォ-ター」があって地下90mから汲み上げた天然水だ。軟水だが2か月飲み続けると、水道水の塩素の苦さを感じる。15分間で100円で利用できる。知人からもらった4ℓの焼酎ペットボトルを12本持参していく。途中に島松駅逓がある。鉄道が敷かれる前に、馬が交通機関であった。島松駅逓は旅館も兼ねていて、明治天皇が来道してここで2時間休憩し、井戸水を飲んで休んだ記録がある。紅葉に囲まれた駅逓の写真である。

3)不要本を整理する手伝いをしているが、文学全集や百科事典を大量に持ってくる人がいる。美術全集で全巻揃えてあればリサイクル市で値札をつけて売れるが、文学の場合、個人全集なら売れるが、バラ本なら廃棄本にいくケースが多い。特に百科事典は持つだけで重い。18世紀フランスの啓蒙思想家ディドロ、ダランベールが始めた「百科事典」、日本では林達夫さんが編集長だった平凡社の百科辞典がある。日本や世界のその道の学者が各項目ごとに説明をしていく大変な作業である。あいうえお順によく書いて作ったものだと感心する。その前に言葉を選ぶ作業がある。パソコンがない時代は写植で鉛の文字を並べていく。校正する場合も何倍の手間がかかる。パソコンが出てから写植屋さんは次々閉店、新聞社の制作現場からも鉛文字が消えた。知り合いの写植屋さんはロシア語の活字があるので、ホクレンやロシアへ貿易に行く人,道庁関係の名刺やロシア向けのパンフレットの仕事はあったが、広告代理店からの仕事の依頼が激減して廃業に追い込まれた。パソコンの出現でデザイナーも転職を余儀なくされた、Macでさくさくデザインできるようになってしまったからだ。発明品一つで世の中変わる、というよりたくさんの人の人生も変わってしまった。アナログ人間の同世代と会えば、デジタル社会への愚痴が出る。

ジャガイモの歴史(3)日本への伝播。異説紹介。

 

昨日のブログで、日本へ伝えたのが1598年、オランダ人が長崎へ伝えたというのが定説であった。

しかし、日本で最初に来たオランダ人は1600年大分県臼杵に漂流したウィリアム・アダムズ(日本名 三浦按針)で、これでは1598年に長崎に伝えるわけにはいかない。長崎の平戸には、多数のポルトガル船が出入りしていて、パン、カステラ、タバコ、ワインなど日本へ1550年ごろから持ち込んでいた。ジャガイモもそのとき一緒に持ち込まれたのではと推理する人もいる。(下記のブログを参考にしてください)

オランダ船の平戸初入港は1609年だ。ジャガイモの語源が、ジャワ島(ジャカルタ)の地名をなぞって『ジャガタラ芋』と命名されるのも、オランダの東インド会社がジャワ島にあったからという説明もあるが、オランダがジャワ島に上陸したのは1596年、98年に東インド会社の設立とあるから、ポルトガルはそれ以前からジャワと貿易外交をしていて、長崎はじめ日本と行き来をしていたとすれば、伝えたのはポルトガル人ではなかったかと筆者も思う。当時の日本人から見るとポルトガル人とオランダ人は区別できないとも思われる。


しかも最初、ジャガイモは食用ではなくて観葉植物(白い花は実に清楚で美しい)として迎えられた。それが1706年、食用として北海道で栽培されて(ジャガイモ栽培はヨーロッパやアメリカ同様寒冷地に適している)、明治以降、アメリカ・ドイツ・イギリスからいろいろなジャガイモの品種が輸入されて広がった。

蘭学者高野長英(1804年~1850年)も『ソバとジャガイモを考察する本』で凶荒の年に人民を救う食べ物としてジャガイモ栽培の促進を提言している。世界中で2000種あるとも言われるなか、日本では20品種が作られ、食べられている。

ジャガイモは長雨なので疫病も付きやすく、そうなると何百万人もの餓死者をアイルランドはじめヨーロッパは出してしまい、それが後のアメリカ大陸移住へ大量に向かわせた。複数の作物でなく単品だけに依存する食糧事情はいざというときに弱く、凶作になると餓死者を生むのである。

ジャガイモの疫病は黴の1種とされる。ジャガイモの出来不出来で世界の歴史が動いているのである。寒冷地と痩せた土地ということであればアイルランドに北海道も似ている。いまでは土作りから農業であってみれば、より美味しいジャガイモを作る農家が増えているのは言うまでもない。それにしても安くて得がたい作物・数ヶ月保存できるインカからの贈り物である。(筆者の自宅床下に5キロ800円のキタアカリが保存されていて、これで来年までイモは買う必要がない。便利な食べ物で、災害時にも強く、料理の幅も広い。さらに栄養価も高い)。

伝えてきた人、品種改良した人、作る人、選別する人、さまざまな地域と人の交錯で生まれたジャガイモ。ひとつの作物にはまだまだ知られぬ物語が隠れていそうだ。

http://www.in-ava.com/zyagaimo.html

ジャガイモの歴史(2) ヨーロッパへ伝わる

http://www.geocities.jp/a5ama/e000.html

前回は、中南米のジャガイモ起源の話を書きました。その前に、スペイン人がカリブ海諸島で『味は生のクリに似ているが、こちらのほうが少し甘い』とインディオが食べていた塊根植物があって、実はこれは後でサツマイモとわかった、16世紀初頭の話である。焼くと蜂蜜のように甘くなり、生育も早く、根は数ヶ月間保存できて、長い航海には最適のイモも見つけた。

奴隷商人で冒険家ジョン・ホーキンスが1565年、実はサツマイモであったイモにpatata(パタタと現地で言われていた名称)をpotato(ポテト)とネーミング。その後、ジャガイモに遭遇してもポテトという名称をヨーロッパで使い続けるようになった。1573年にスペインセビリアの病院でジャガイモが使われている記録があるが、ジャガイモが南米の西海岸からヨーロッパへ届く前に腐るはずなので、ある歴史家の仮説では、カナリア諸島(アフリカ大陸北西部)で一度根付き、そこからヨーロッパへ1560年代に輸出されたと推理している。

ジャガイモは生育環境が、冷涼多湿に適しているため、最初の到達地スペインは高温乾燥で適さず、すぐにイタリアへ。さらにここから北や東へ伝播した。スペインが100年間、ペルーのポトシ銀山で取れる銀で軍備を増強し、ネーデルランド(オランダ)と戦争したとき、補給線沿いに農民はジャガイモを植え、スペイン兵士や補給部隊に売って儲けた。1570年にはイタリア、1581年にはドイツ、そしてスイス、フランス、ネーデルランド(後に日本へジャガイモを伝えたのはオランダ?)へ。

簡単な道具で栽培できて、3~4ヶ月で栄養価の高い実をつける。イギリスへの伝播には、海賊ドレークがカリブ海から運んだという俗説もあるが、長旅には適さず、カリブにはジャガイモがなかったことから、大陸ヨーロッパから伝わったと見るのが妥当だと。また、ジャガイモは当時の食料事情を考えて有用な、誰からも歓迎される食べ物ではなかった。なぜなら、『ジャガイモは有毒で、ハンセン病や赤痢などの病気を運んでくる』と考える者もいた。(O157がカイワレ大根が原因だとの風評に似ている)フランスのブルゴーニュでジャガイモ作付け禁止令も出ているくらいだ。18世紀末まで偏見は続く。

ドイツでのジャガイモ栽培は17世紀だ。戦争と天候で史上最悪の飢饉(1701年から1714年、スペイン継承戦争)で農民も兵士もジャガイモを積極的に栽培開始。後にデンマーク、スウエーデン、さらにプロイセンでも栽培開始。17世紀後半までにはイングランド、スコットランド、アイルランドへ。それを見て、ロシアのエカテリーナ2世も栽培を命じた。小麦が不作のときにジャガイモは代替食料になったのである。