ブログ90本目記念 原点に還って立花隆「エーゲ」

「太古につながる生活者の目)というブログを途中から読み始めた読者もいらっしゃるかもしれませんので、90本目に書いた記事を再録して、原点に帰ろうと思います。

前回は、「知の考古学」という雑誌の巻頭言から、この題名の由来について書かせてもらいましたが、今回は、立花隆さんの「エーゲ」(永遠回帰の海)(書籍情報社)からの引用になります。ページも列記します。

20年を費やして完成したカメラマン須田慎太郎さんとのコラボ本ですが、その序にイタリアのシチリア島セリヌンテ神殿群を前にして「突如として私は、自分がこれまで歴史というものをどこか根本的なところで思い違いをしていたのに違いないと思いはじめていた。知識としての歴史はフェイクである。学校の教壇で教えられた歴史。歴史書の中の歴史。歴史家の説く歴史。記録や資料のなかに遺されている歴史。それらはすべてフェイクである。最も正統な歴史は、記録されざる歴史、語られざる歴史、後世の人が何も知らない歴史なのではあるまいか」(45頁)

「記録された歴史などというものは、記録されなかった現実の総体にくらべたら、宇宙の総体と比較した針先ほどに微小なものだろう。宇宙の大部分が虚無の中に呑み込まれてあるように、歴史の大部分もまた虚無の中に呑み込まれてある」(46頁)

立花隆さん30歳のとき、地元の人も誰もいない遺跡群を前にして突如、湧き上がった感慨でした。自分たちの日常を考えればあたりまえのことですが。昨日のこと・現実はすべて表現はできない、表現するときは多くの何かを捨てている。数量化の比喩を使えば1%の現実を表現するのに99%の現実を捨てている。この繰り返しが歴史なのではあるまいか。

日常の暮らしのなかで、会社であれ、家庭であれ、事件のなかにも、捨てられたものがたくさんあって、そのおかげでいまの自分がいるのではあるまいか。記録されなかった現実の総体が、実は、意図的または気づきもなく捨てられた現実でもある。その人がそこにいるということは、そこにいない人を山のように抱えているのだ。歴史はそういうものを丸抱えしたなんだか分析なり、調理を許さない、歴史学を嫌う生き物に見えてくるのは、私の妄想だろうか。現代にも、現代だからこそ、見つめていい視点ではないのか。それが時代を超えて太古の人ともつながる早道、深いところで共感できる生活者の目のような気がする。

*追記・・・ブログ3年目に入り、毎日書き続けているがいつまで続けられるか不安。本屋へ行けば、それぞれの関心どころの著作は並んでいるし、センセーショナルな見出しの週刊誌も、ついつい立ち読みをしてしまう。電車に乗れば、スマホ族がずらりと下を向いてゲームや友人と文字交換。サイバー空間で生きている。ハッカーたちはサイバー戦争を毎秒している。私たちのライフラインに入り込まなければと願うだけだ。写真家土門拳のモノラル写真を見て、貧しいけれど懐かしく思うこのごろである。

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