植福について
人生の事というものは、座敷で道中双六をして・・・・(幸田露伴)
幸田露伴の『努力論』という本が棚にあって、ペラペラめくると中身は幸福論であった。明治の知識人は漢文に造詣が深くて文章のキレがいい。人生を旅にたとえて露伴は語る『人生の事というものは、座敷で道中双六をして花の都に到達する如きものではない。真実の旅行にして見れば、旅行を好むにして見てもなおかつ風雪の悩みあり峻坂嶮路の難あり、ある時は磯路に阻まれ、ある時は九折の山道に白雲を分け青苔に滑るなど種々なる艱苦を忍ばねばならぬ。即ち其処に明らかに努力を要する。・・・・・如何に財に富み地位において高くとも,天の時、地の状態などによって相当の困苦艱難に遭遇するのは、旅行の免れない処である』(岩波文庫 89p)。好きこそ物の上手なれとはいうものの『徹頭徹尾、好適の感情を以てある事業を遂行する事は殆どの人生の実際にあり得ない。種々なる障璧、あるいは蹉跌の伴う事はやむをえない事実である。而してそれを押しきって進むのはその人の努力に俟(ま)つより他はない。・・・・・才乏しく徳低き者にありては、努力は唯一の味方であると断言してよいのである。あたかも財力乏しく地位また低きの旅行者が、馬にも乗れず、ひたすら双脚の力を頼むより他に山河跋渉の道なきと同様である。』
偶然、手にした幸田露伴の努力論。努力の『努』という漢字は『女と又と力』が合成されている。さらに『力』が下で支えている。生命を生む女性、力の源泉としての『又(股)』かもしれない。白川静先生の辞典を調べないいけないが、はっきりしたら再度、報告します。明治45年に発刊されている本である。『すべての人が伸び伸びと勢いよく日を送り、楽しく生を遂げ得べきものをと・・苦を転じて楽となし、勇健の意気を以て懊悩焦燥の態度を払拭せんことを』進めるために書かれた本で、幸福論にありがちな著名人の引用句が全くない珍しい本である。さらに幸福について、最高の幸福を『植福』として、小さな種でもたくさんの実をつける、種を植える(幸せ)ことで福を広げることを書いていた。アフガニスタンで殺された中村哲さんを思い出してしまう植福であった。鬼滅の刃で活躍する柱たちも弱い人たちに植福をしているように思うのは私だけだろうか。