山下達郎コンサート外れ、無念。

8月14日、15日ニトリ文化の山下達郎コンサートチケット当たらず、無念。8月19日の苫小牧の再抽選もダメであった。石狩湾新港で開催のライジングサン(8月12日)に達郎が出演するが、筆者は参集する世代を考えるとどうも気が重い。しかしこちらも完売で1枚もチケットはない。1万円で山下達郎のファンクラブに入り、先行して買わないとダメかなと考えてしまう。これまで外れたことがなかった山下達郎コンサート。チケットに異変が生じたのか?

そういえば、最近、ライブに行きたいファンが多くなって、どの世代も生演奏を聴いてしまうとテレビやCDではなくて、その魅力に取りつかれる。妻が行きたかった『竹原ピストル』も発売と同時に完売。安室奈美恵のドームコンサートに福岡と東京で2度当選して2度満喫してきた娘と大違い。彼女の旦那も悪乗りして、安室の札幌ドームコンサートを6歳の娘と連名で申し込むが外れた。現在、彼は宇多田ひかる福岡コンサートを目指している。娘の運は自分にしか利かないようだ。

2月に札幌コンサートホールKITARAで開催の辻井伸行のピアノコンサートは凄かった。彼がニューヨーク時代にクラシックよりジャズピアノの道へ進もうか迷った話をステージでしていた。実際、彼がジャズピアノを弾き始めたと演奏の迫力におったまげた!クラシックの型のなかでアレンジしながら練習や演奏会をしてきて、それが思いっきり外せるジャズ。伸び伸びとした爆発的な表現になったのだとジャズ門外漢の妻に説明した。しかし、チケットの転売が横行して、会場での本人確認の厳しさもネックになっている。ジャズピアノでも大成できる辻井さんだ。

山下達郎の奥さんのフィルムコンサートが秋に劇場上映するニュースが流れた。真冬の札幌真駒内のスケート場で「竹内まりやコンサート」に行ってきた筆者としては必見である。2回~3回は見ないといけない。横に達郎さんがギターを弾いてお喋りしますから。ドラマーの青山純さんは亡くなるし、産みの親である大滝詠一さんも亡くなったし、少し淋しい筆者である。シングルレコード「未来のミライ」を先日買った。せめて会場へ行けない代償である。

『進化は未来のことなどおかまいなしだ』(リチャード・ドーキンス)

『利己的遺伝子』の40周年記念版の50pに書かれていたドーキンス博士の言葉。『進化は未来のことなどおかまいなしだ』。自然現象もそうだし、考えてみると、突然変異は、次に生物の変化(進化)を予告するのだろうけれど、合目的的(高いところの実を食べれるように背が高くなったとか、空を飛ぶために羽が付いたとか、生物がある目的のために変化することを合目的的という)に変化しているわけではない。結果としてそうであっても、その目的のために進化はしない。はっきり言って偶然の出来事でしかない。

なぜ、人間は二本足で立ったのか?二本足で立ったから二本の腕を使えるようにはなったけれども、腕を使うために二本足で立ったわけではない。京都大学の今西錦司さんは『ある日、突然一斉に立った。』である。世の中には理由のない事柄がたくさん起きる。現に毎日起きている。私たちはいつのまにか『因果論(律)』に大脳が捉えられていて、起きてしまった事柄を平気で原因分析をして結論出してチョンで終わる。しかし、ドーキンス先生は『未来のことなどおかまいなしに進化が発生する』と言う。突然、3本の手を持つ生物が出てくるかもしれないし、目が3つあったり、頭が三角形かもしれない。何でもありなのである。

『私たちにとって都合が悪いよ』と言っても、進化は自然現象と同じで関係ない世界なのである。いつのまにか人間は、生物の中でとても高尚で、賢くて言語を操り、次々に発明をして、文化や文明を築いてきたけどそれも偶然の出来事で、昆虫や花という生き物は作れない。人間とは何かとギリシャの哲学者や古代の賢人は問いかけてきたが、いまだに結論が出ない。発言者が自分の立ち位置で都合のいいように答えているに過ぎない。人間とは気まぐれな動物だ・・が一番近いかもしれない。

夢も希望もなくなってしまうが、明確な目標を立てて毎日努力を惜しまない人間が評価される世界ではあろうけれど、その背景には人間の価値観は変わらないはず(努力は大いなるプラス価値、誰よりもお金持ちになる、出世する価値、子供をどの子供より難しい学校に入れて、未来の幸福が約束されるだろう位置につける・・などなど)。しかし、果たしてそうか?幸福という価値観にしても、みなさん十分経験済みではあろうけれど、瞬間的な出来事に過ぎない。不幸が来るというわけではなくて、幸福感はすぐに去ってしまう。偶然な出来事で、偶然であるがゆえにより強い幸福感を瞬間味わえるだけ。『進化は未来のことなどおかまいなしだ』。未来は何があるか予測がつかない、やはり『一寸先は闇』が真実ではなかろうかと思うきょうこのごろ。

 

庭のバラがゴミに見えてくるときがある。

ウツギもそうだが20年前から植えてきたバラが約20本、多いときは30本を超えるツルバラやオールドローズや花名不明のバラが狭い庭に植えていた。しかし、手前の芝生もきれいに刈り取りをしないとバラが生きない。歩道側に突き出したバラは、うつぎの花と一緒に転がっている。風雨の後は、登校時、小学生がうつぎのピンクの花を拾っていくが、いなくなれば筆者はチリトリを持参してホウキで拾い集める日課である。

花は燃えるごみなので、市で決められたピンク色の袋に詰め込んで1週間で2回ある燃えるゴミの日に捨てる。『花はゴミである』、山の中の自然の中で育ち、花を咲かせ、人間に見られもせず、散って、様々な菌に消化されて土へ帰る。なまじガーデニングを始めると、咲いた時の嬉しさもあるだろうが、それ以上に落ちた花の処理仕事が増える。若い時なら体力もあって柔らかい北海道の日射を浴びてルンルンだろうけど、肉体仕事がつらい年齢にかかると、『花=ゴミ』と味気ない結論に達する。花弁の多過ぎるバラはたちが悪い。風で飛んで行って四方を汚す。

花は他人の庭の花を見るのに限る。街の花屋さんで匂いを嗅ぐのに限る。しかもバラは抵抗をする。30分もバラをいじっていると、どこかにバラの棘が刺さっていて取れにくい。きれい好きな妻が、現在乳がんの放射線治療をしているので、ハチに刺されたり直射日光はご法度。バラの手入れはアバウトな私の仕事になってしまった。嬉しいのはことしはアブラムシが少なく木作酢を噴霧する機会がなくひと手間省けていることだ。

ゴミといえば広島・岡山・愛媛の大豪雨で民家を押し流してたくさんの死者・行方不明を出した。たかが自分の庭の花をゴミだなんて言うのではなくて、どこかのグラウンドに集められた家庭から排出された家電・家具が何メートルも積みあがってる風景を見て、なんと甘いブログを書くのかと思う。35年前に石狩川の氾濫で実家が床上1メートルの被害くらいしか受けたことがないので、丸太が家を突き破り、裏山が家も人も押し流す光景を見て言葉が出ない。

被害を蒙った一軒一軒に最低3000万円くらいポント税金を与えられないのか?霞が関の官僚は各省から1000人、役人の身分を隠して作業衣と軍手、長靴を支給して1か月復興に働くことを義務付ける緊急立法ができないか?県や市に『被害状況の数字を示せ』ではなくて、自分たちも被災者の視点でたくさんの体験を重ねることで、それが法律や国の生き方に多少でも庶民に寄り添う癖ができる。そう思う。庭のバラの話からゴミへ、ゴミから被災ゴミ(被災者にとっては思い出の品であることは言うまでもない)。