『ジャガイモの歴史』(2016年10月の再掲載ですが)を3回にわたって掲載します。
これまで、豚肉の歴史など、食材の歴史シリーズを出している原書房の本を借りてきた。
私の知り合いも近所で50ヘクタール(広さが実感できない)の農地を耕していて、札幌でのサラリーマン暮らしを辞めて農家を継いだわけである。きっかけは、草取りのバイトに筆者が応募し、農業の話や政治や将来の日本農業やTPPや雑談がきっかけであったが、その真摯な姿勢に打たれて、肉体労働は2日間でダウンするが、ジャガイモについて勉強しよう。
偶然、札幌で飲食を経営する会社の役員と面談させたら、地産の食材を品数多く作って欲しい旨の要望に彼は『やりましょう!』と即断した。ビニールハウスで実験栽培したレタスは北海道を次々通過した台風並みの雨風で全滅したが、一番作付け面積の多い『ジャガイモ』は、全部収穫に漕ぎ着けた。紹介した飲食店のほぼすべての店のジャガイモは彼の農家から仕入れたものである。
実は私の父もニセコ町(旧狩太・カリブト)で生まれ、ジャガイモ農家に生まれたが次男であるため尋常小学校を出て、貧乏であるために、教員への道を諦めて満州へ渡った。温暖な土地なら『米』を作れるだろうが、寒冷地の北海道に向いた作物として選ばれたのが、貧弱な土地でも1本の苗から収穫の多い『ジャガイモ』であった。
寒冷地のアイルランドやスコットランドから移植された。北海道では馬鈴薯とも言う。鈴なりに成る薯(イモ)で馬に引かせて収穫したから馬鈴薯と名前がつけられたのか?『ジャガイモ』について語ることは、私にとっては78歳でトイレで脳梗塞で急死した父の面影を思い浮かべることでもある。しばらく『ジャガイモの歴史』に付き合ってください。知ってのとおり、ジャガイモは南米原産の野菜で、人類の祖先がアメリカ大陸へベーリング海峡を1万6000万年前にやってきて、西部海岸に沿って南下して1万4000年前にチリ南部に到達した。初期のアメリカ先住民は食用にさまざまな野生植物を食べて生きてきた。その中で、南アメリカの全域、中央アメリカ、北アメリカの南西部に広大に生育していたのが『ジャガイモ』で235種もあった。これほど野生種の先祖を誇る植物はない。ダーウィン流に言うと多品種であるがゆえに生き延びる可能性に適した、どんな天気であっても強いものが今日まで続いてきたということになろうか?
特にアンデス山脈は世界最高峰の山々が連なる。平らな土壌や肥沃な土壌がない。アンデスの農民は山の斜面に段々畑を作り灌漑用水路を作りたくさんの品種を育てたが、中でも『普通ジャガイモ』が世界中のスター食べものになった。その成功は約1万年前、チチカカ湖盆地でアンデスの農民が栽培に成功した。世界中で農業に最も不向きな土地で、ジャガイモイが人間の主食になった。
日中は暑く茎の成長を促し、夜は寒く根の成長を促して、それが根にたくさんのジャガイモを作ることになった。気に入ったジャガイモの苗は次の年に植えて(クローン化)200種類のイモを作っていたのだ。1万年前の話だ。さらに肥料としてアルパカやリャマの糞を土壌に入れて肥料にして収穫を増やした。さらに南米の原住民は飢饉になっても、ジャガイモを何年も非常食として備蓄する方法も考え出した。ジャイモを冷凍乾燥させ、食べるときは水で戻したり、粉にして焼いてパンにしたり、スープにして食べるのだ。チューニュ(乾燥ジャガイモ)の誕生である。リャマの背に積んで標高の低い土地へ行き、トウモロコシ、コカ、キャッサバと交換する。
アンデス文明の起源は4500年前にさかのぼるがこの時期の土器にもジャガイモを象(かたど)ったものがある。紀元1200年ころ、少数民族インカ人がアンデス山脈の近隣部族を吸収していく。最盛期には900万人から1500万人の人口を擁したとされる。不思議にインカ帝国には税金がない。その代わり肉体労働で土木事業に従事する義務がある。倉庫づくりも大事な仕事で、そこには数年分のチューニュ(乾燥ジャガイモ)を備蓄した。インカ帝国でもっとも大事な農作物であった。
第二回は、ここにスペイン人たちがやってきてヨーロッパへ伝わっていく話だ。そして、それが北海道へ伝ってきて、今日のポテトチップスや道産土産カルピー『じゃがぽっくる』の話までいくといいが。(千歳のカルビー工場見学は大人気で早めの 予約が必要。)ジャポックルの原産ジャガイモは十勝の契約農家が作っていて、今回の台風被害でピンチである)

