談志が落語家になりたいと親に言うが、反対される。しかし、好きなもんはしょうがないと小さん師匠に弟子入りすることになった。そのときの親の気持ちを談志は推し量って「世の親はみんなどこかであきらめる」(河出書房 立川談志 30p)。娘が連れてきた結婚したい男を紹介されたとき、私は最初反対はしたけれどしょうがない。私が大学に退学届けを勝手に出したときも親は「しようがない」とあきらめるしかなかった。いまの妻と結婚するときも「こんな息子でいいの?」と妻に念を押した母親。「はい」と妻。しかし,40年経過して、「お母さんが言う意味」がわかったらしい。ときすでに遅しだ。クリスマスも終わり、世の親たちは子供たちからねだられたプレゼントの数々、高価なゲームソフトも多いが、強く欲しがるので親は「どこかであきらめて」買ってしまう。最新機種のスマホもそうだが、通信費を親が負担している子供も多い。考えてみると自分も子供のころ、親からあきらめられて育っているから、順繰りの人生だ。運動会でも目立った活躍もなく、学芸会も出番がなく、マンモス小学校ゆえ、まったく特性のない小学校時代を過ごしてきた。母の自慢は1歳上の兄だ。早い時期に私は「どこかであきらめられて」育ってきたような気がする。それがかえっ奔放に自然児(誰かから綽名をつけられた)のように育ち、非常識な社会人になる素地をつくったのかもしれない。

  1. 家庭の事情や金銭的に諦めた事、恋愛で諦めた事、友人関係で諦めた事、仕事関係で諦めた事など、沢山ありますね。長い暮らしの中で、諦めると言うか、二者択一か三者択一など選択を迫られる機会は随所に有りますからね。あの時諦めた事が結果は正解だったとか、あの時諦めていなかったら今の自分はいなかったかも、とか。諦める行為にもそれなりの理由があったわけですから、必ずしも悪い事ばかりでもなさそうですね。

    • 子どもに対して諦める親の気持ちを談志は書いたのでした。それ以上に、自分の人生で諦めてきたことはたくさんあるけれど、たぶんそれはあえて選択をしなかった・できなかった理由がきっとあったんだろうと思いますが、親たちも戦争や貧困と、子育てやマイホームの取得と苦労をしてきました。次男の私はいつまでも自然児みたいな生き方で困らせました。

  2. 幼子は可愛く、ついつい将来を明るく考えがちですが、しかし現実はやって来ます。小学校高学年、中学校、そして高校と。よとよち歩きのあの時の可愛かった幼子も、すっかり立派になれば良いのですが、そうとばかりか、ぐれたり、ひねくれたり、親のイメージ通りには行かない事の方が多いのではないでしょうか。自分自身がそうであったのに、子供に理想を求めても無理と言うもの、自分より少しでも取り得が有れば良しとして諦めるしか無いですね。世間には何一つ文句のつけようのないご立派な御子息や御令嬢もいらっしゃる事とは思いますが、素直に育っても、大きくなってから道を踏み外すより、若い時に色々無茶でもやって、そんな事も卒業してまともになってくれれば良しとしなければいけませんね。

    • 若いときの無茶のほうが取り返しが効きます。私も働きだしたのが27歳。それまで好き勝手にバイト人生、フリーターの始祖みたいなもん。子供にああだこうだ言える資格はないですね。孫もひとりいますが、責任なくてかわいいです。子孫を持てたとどこかほっとしています。孫がすくすく育ってくれればいいですが、いろんな困難が待ち受けていると思いますが、明るく乗り越えていってほしいと祈るばかりです。

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