自然災害の補償

札幌の街
札幌旭山公園から撮影

水害や地震や火山や土砂崩れや、被害に遭った国民を税金でせめて、現状維持まで救えないかという提案だ。生保や損保では、死亡保険以外、自然災害については被害者の泣き寝入りだ。わずかに地震保険があるだけだ。

鬼怒川の映像を見ながら、住宅ローンやマイカーローンを組んで返済中の人たちを原状回復まで国が税金で払えないかという提案だ。たとえば自宅は完成していて、2000万のローンを組んでいるとする。流されたり、1階部分を大幅修理しなければならない場合、そこまで全部税金で賄うのだ。潰す必要もない国立競技場を、リフォームして格安オリンピックをすればいいものを見栄を張って、ゼネコンと広告代理店、体協職員の待遇、テレビ局の景気浮上のためにするイベント経費があれば、十分賄えると思うのだ。ゼネコンは川の堤防の再構築へ向かえばいいしね。

3.11でも原発でも、全国各地の水害、土砂崩れ、これから考えられる地震や再度の原発事故、火山噴火。どれひとつとっても明日は我が身だ。その生命や財産を守るために国があるのだという原点に立ち返りたい。札幌はタワーマンション計画が目白押しだ。駅前周辺は、即完売御礼だ。首都圏の富裕層がホテル代わり&災害があったときに住む住居として確保している。羽田からススキノの飲み屋さんまで、地上に一度も出なくても行ける。飛行機→快速エアポート→地下歩行空間でススキノだ。地下都市に変貌している。

なので冬の寒さが苦手でも快適に過ごせる。災害が超少ない数少ない大都市だ。お金持ちは、何があっても困らぬように第二の住居を確保している。しかし、普通は戸建てやマンションのローンや高い教育費を払うのに手いっぱいの人生が大半である。普通の暮らしさえ、大変なのに、一度の災害や天災で、後半の人生がズタズタにされる。

希望を失わせないように生きられる手助けを、災害救助隊の後は、国が金銭面で面倒を見るという安心感があれば、元気に生きられると思う。戦闘機1機よりヘリコプター10機の方がよほど役に立つと思った(値段は知らないが)。何回も何回も繰り返す災害で、住民の不安や未来への絶望のまなざしを見てそう思った。

35年前、500年に一度(いい加減な表現)の石狩川の大洪水があって実家が床上150センチに埋もれ、ボートで両親が救われた。水が引いた後、タタミを持ち上げたり、壁の補修、電化製品の総入れ替えをしたときの父のがっかりした顔を思い出す。全国からの寄付金を被害家屋で割ると3万円だった。宅地開発をした不動産会社から毛布セットだ。あとは全部自己負担だったので、災害規模からいって実家の何十倍も凄いことになっていて、他人事ではないのでブログに書いた次第。

(ネットバカ)~インターネットがわたしたちの脳にしていること~第3章

象形文字
象形文字

ヒエログリフ

9月8日に第2章「生命の水路」。きょうは第3章「精神の道具」としてテクノロジーの世界に踏み込む。社会学者のヴェブレンやマルクスの見方、「テクノロジー決定論」から。

テクノロジーの進歩は人間のコントロールの及ばぬ自律的な力であり、これが人類史に影響を与える第一のファクターだと考える。「風車は封建領主のいる社会を与え、蒸気機関による製粉所は産業資本家のいる社会を与える」(マルクス)。マクルハーンのメディア論でも、人間は「機械世界の生殖器官」、本質的な役割は、さらに精巧な道具を生み出していくことだと。

その対極が道具主義だ。道具は単なる中立的な人工物で、我々の意識的な欲望に完全に従属するので、目的を達成するために使う手段だと言う。いま最も支持されている見方だ、というか、そうであって欲しい希望を込めて支持されている。テクノロジーを、どの道具をどこで使うか、意識的に人間は選択しているはずだ。

しかし、カーは「歴史的・社会的にもっと幅広い視野で見れば、決定論者の主張の信用性が増してくる。〈中略)テクノロジーの副作用をも含めて、我々は選択をしていないことがわかるだろう。テクノロジーが使用され始めたとき、副作用は予期されていないのである。」(73p)「自覚されることはほとんどないが、我々の生活のルーティーンの多くは、われわれが生まれるずっと前から使われ始めたテクノロジーに規定されている。」

しかし、カーは思考の産物として目に見えるもの~芸術作品、科学的発見、文書上の文字たち~ではなくて、目に見えないもの、とりわけ人間の脳へ与える知的テクノロジーの影響を考えるのだ。「身体は化石になるが、精神は化石にならない」(75p)1841年、エマーソンも「できるものならわたしは喜んで、冷静に、知性の自然史を展開するだろう。だが、そのような透明なものの進展の段階と境界を誰が見極められるというのか」。そのころのアメリカも産業革命の勃興を見ている時期だ。

その透明なものが、大脳にある神経可塑性の発見、神経系が拡張したり(足りないところを補う作用がある)して、あらゆるテクノロジーが、歴史を通じて、思考や記憶に影響を与えて、人間精神の構造と機能を形成してきたと教えてくれる。

この4万年のあいだ、人間の脳の基本構造はほとんど変わっていないが、遺伝子レベルでの進化は、繊細なゆるやかさで進んできた。ところが、人間の思考方法と行動がこの数千年、原形をとどめないほど変化した。H・G・ウェルズ「社会生活や習慣は完全に変化し、逆転や反転すらこうむっているのに対し、その遺伝形質は、石器時代以来ほとんど変わっていない」。

知的テクノロジーの使用によって、脳内のシナプスから出る化学物質の流れに変化が生じて、脳が変化してゆく。学校教育、使用するメディアによって子どもたちに思考習慣を手渡していくとき、当然、脳構造への変化も手渡されたことになる。たとえばロンドンのタクシー運転手が自分の記憶よりナビゲーション地図を頼るようになると空間や記憶に関わる大脳の海馬という部位が、収縮する一方、複雑で抽象的な視覚情報を解読する部位は拡大する。「道具の要求にわれわれが応えているのである」。パソコンを初めて触った日のことを思い出すとよくわかる。われわれの要求に道具が応えているのではないということだ。

地図がありふれたものになると、人間の方が精神的にも社会的にもその知的テクノロジーへ適応や強化を強めていく。GPSの使用など。自然や社会のあらゆる関係も地図の比喩として、空間的に固定された配列として思い描く。視覚情報で判断する「マッピング」を始めた。グーグルマップもバイクに車載カメラを付けて作成する超アナログのデジタル化だけども。

3章の後半は言語論で、ポイントは「識字能力のある者とない者とでは、さまざまな点で脳が異なっていること」、それは視覚記号の大脳での処理方法、推論、記憶形成まで及ぶこと。書くことのテクノロジーはシュメール人の楔形文字、エジプト・中国の象形文字が始まりだが、はじめはこれを使えるのは知的エリートに限定されていた。複雑な文字ゆえ、単純化されず多数者への道具にならず、アルファベットの出現をまって普及したこと。知性の革命の始まりである。

しかし、エジプト王タモスは「文字は人々の魂に忘れっぽさを植え付けるだろう。人々は文字に頼り、記憶力の行使をやめてしまうだろう。みずからのなかから物事を思い出すのではなく、外に記されたものから呼び起こそうとするようになる」2500年以上前の言葉だ。さらに「文字に頼って知を得ている人は、多くのことを知っているように見えるが、たいていの場合は何も知らない」人になり、「その人々は知ではなく、知を有しているといううぬぼれに満たされる」。

ここは、記憶として想起するときに使う大脳神経、お話として学ぶ者の魂に刻まれた言葉が「文字を仲介することで内なる記憶を外の記号に置き換えることでより浅い思考へ」我々を変える恐れがあることを述べる著者はまだインターネットの脳へ与える影響について第3章までに直截な表現はまだ出てこない。

*エジプト王タモスの言葉(これはソクラテスがプラトンに語った話に出てくる)は、いまの政治家や学者、霞が関の官僚たちとちっとも変らないと思って私は読んでいたが・・・・・・。

 

教養とか品って何?

石川淳
石川淳(作家)

あるテレビ局のシナリオライターWさん(彼は毎日新聞主催のドキュメンタリー大賞を取った人だ)と、時間があればコーヒーをすすりながら「教養っていったいなんだろうね」と議論をしていた。

大正教養主義、三木清みたいな自分の人格陶冶の話ではなくて、最近はほんとうに少なくなったけど、営業先にも品を感じる人が窓口にいたものだ。全道のNHK支局にイベントの後援をもらうために広報担当者と会って話をすると、NHKの職員には、半分公務員ではあるが、興味ある題材の勉強や研究をしている人が多かった。いずれ、関心の深い分野の番組を作る準備をしているのだ。夢を生き生きと語り出す人もいて好感を持てた。

しかしそれ以外のテレビ・新聞関係者・広告代理店には意外や少なかった。知識や金はあるけど教養や品がないのだ。強いてあげれば、朝日新聞の天声人語を一人で書き続けた深代淳郎さんタイプが私の教養人のモデルになっている。46歳で急性骨髄性白血病で亡くなったけど。知識や本が胃腸で消化されていた人だ。血肉になっている、それだから、振る舞いが自然だとかいろいろ指標はあるけどね。

絵描きとか書道家にも多い。手や指をたくさん使うと、大脳が細分化されて、細かな差異やニュアンスがわかる人間になるのかもしれないが、W氏さんとの教養論議は終わりそうもない。お互い、退職してからも「教養や品」について語り合えるのは貴重な知人だ。オーディオマニアでもあるので、筆者としてはそちらの方面にはついていけない。

ふたりで合点がいったことが一つだけあって「教養人はひとりのときに、その時間を何に使っているか、習慣として継続性のあることをしているかで形成されると。それが作家の長編を読むことだったり、音楽を聞いていたり、落語をかけていたり、落ち着く時間を・研究する時間をたくさん持っている人かもしれない」。そしていい顔を作る。いい顔をつくるためには充実したひとりの時間をたくさん持たなければダメだと断定しておこう。

いい顔の人にはまた品のあるいい顔の友人ができる。似たもの同士の輪ができる。なんだか抽象的な表現になったけど、わかる人にはわかるはず。それが見えにくい時代になってしまった。居酒屋からの帰りに交番の前を通ると、凶悪犯の人相書きと犯した犯罪が書かれ、写真も貼られていたが、なかなかハンサムな顔もあり、昔はいかにも凶悪犯という顔が「普通の顔」になってる。凶悪犯は凶悪犯の顔をして欲しいな・・・と強く思った。ならば、市民は魔手から逃れられる。