火事場泥棒・難民ビジネス。

難民

 

火事場泥棒をどう定義するかにもよるが、人が困っているときに(水害や火事など)押し入って無防備な他人の財産をかすめ取る行為だとしたら、東日本地震災害のときに津波に遭った信用金庫の建物に入って金庫を盗んだ事件があった。福島原発の事故で立ち入り禁止区域の住居に入り泥棒も繰り返された。アメリカ南部の洪水のときも商店が略奪に遭った。中南米の地震のときも同じようなスーパーからの略奪行為が頻発した。

最近の火事場泥棒は「難民ビジネス」だ(11月17日ニューズウィーク)。密入国斡旋ビジネス。イタリアシチリア島パレルモのマフィア対策チームも驚愕だ。2000年以降、地中海で溺死した中東・アジア・アフリカ出身者は2万2千人。この1年半でOECDは最大100万人の難民申請があると予測している。

密入国斡旋は、送り手側と受け手側が密接な連絡をすることで成り立つ。2013年、363人が死亡したイタリア最南端ランペドゥーサの事件で生き残った人から斡旋業者の電話番号を聞き出して、その番号を盗聴、さらに彼がかけている電話も盗聴して、斡旋業者の「連絡網」を追跡した。それはアフリカからヨッロッパ、中東、アジア、アメリカまで広がっていた。マフィア対策チームは18か月間、3万件以上の盗聴録音記録を分析して、彼らの年間の稼ぎは70億ドルと推定した。

その人身売買の中心にいたのがリビアに住むエチオピア人40歳の小太り男「エルミアス・ゲルメイ」。人間をモノとして扱う(これは昔、アフリカの奴隷をアメリカ南部へ送っていた奴隷貿易と同じ手法ではないか。筆者注)。「アフリカを逃れてリビアや欧州諸国へ向かう難民たちに寝る場所から交通手段、食料までサービスを提供する」。すべてお金は前払いだから「リスクがない」。難民が溺死しても金は残る。

彼は複数の言語を操り、10年間あっせん業を営んでいる。船もシチリア当局に没収されるから、使い捨ての木製の漁船、ゴムボート、浮くのがやっとの船を用意する。スーダン、ソマリア、ナイジェリア、エリトリアの斡旋業者に頻繁に電話をかけて、受け入れ側のシチリア、ローマ、ミラノ、ベルリン、パリ、ロンドン、ストックホルムの斡旋業者と関係を築いている。さらにお金持ちの難民のために偽装パスポートや結婚証明書の手配もしている。総合サービス産業になっている。しかも、彼は難民の家族たちに親切で電話で丁寧に応対する。信頼をされているからたまらない。信用されている人間だからと彼に頼る人が多い。しかし、やっていることは人身売買だ。

また、上陸したシチリア島では首都マフィァが、避難民を受け入れる施設を管理運営する仕事を請け負っている。食事を提供したり、語学講座を開いたりしている。ドラッグより金になるとマフィアは豪語している。当然、市の高官もマフィアから賄賂をもらっている。ここにも難民を食い物にするろくでなしがいる。関東のホームレスを関西へ連れてゆき、生活保護を受給させて、決まった住居に住まわせて、家賃を取り、ときには病院へ行かせて、抗うつ薬をいただき、転売する暴力団もいるが、難民や貧困をビジネスに変える悪党は世界中減らない。

生き残るためになけなしの財産を遣い大移動する、食べるために豊かな土地へ移住する。移住したところには既に住んでいる人が大勢いる、仕事を見つけないと生きていけないが、現地の失業者と衝突し、対立する、下手したら殺し合う。シリアやアフガン難民についてはまだ書いていないので、ニューズウィークで書かれていたらまた紹介します。ただ、こちらもお金は払ってるみたいだ。大金持ちは飛行機ですでに安全なところへ移動完了している。

雑感(1)場所と安全

団らん

毎日(3月18日から今日まで)ブログを書いていて、いつも悩むことはテーマもそうだけど、それ以上にプライバシーだ。顔の見える読者ならいいけれど、氏名は出さなくても、あの人だと関係者にわかる書き方はまずい。それを上手に一般化して語ればいいけれど、自分以外、チェックする人がいないのが悩ましいところ。長年の営業で顔の見える関係の上で生きてきたので、そうなるかもしれない。

60を過ぎると記憶違いも出てきて困る。また、家族の問題もある。「えっ、うちのお父さんがこんなことを考えていたの?」とか「孫の話を書いてはダメでしょう」とかいろいろ制約はある。それ以上に、ココロのストリップは恥ずかしいということ。全部を読んでないにしても書棚は相当に親しい人以外は見せたくない。ほとんど市立図書館の白いBOX(不用な本を入れる)に捨てたけど。

思想傾向や、思考回路も隠れた趣味を持ってる場合もある。テレビの取材で、どこかの大学の先生が事件のコメントや批評を述べるときに、自分の研究室の書棚を背にして喋る風景は、話の内容以前にどうもいただけない。私自身の体験上、大学の先生に呼ばれてこれからの自分の勉強や進路についてあれこれ指導された部屋を思い出すから、近親憎悪的な感情が自分にまだ在るのだと思う。テレビカメラがあれば、もう少しデリケートに神経を通わせて、場所を移して取材に応じるべきではないか。もっと自分を低い位置に置いてからお喋りする習慣を身につけて普通の人の目線、それこそ「太古につながる生活者の目」にシフトしていただきたいものである。夏なら芝生の上、冬なら暖房のあるところで手を温めながらででいいのではないかな。

どこの場所で話すのかというのは、人が考える以上に大事な要素だと思う。安全な場所で発言するのと、背中に危険を負って話すのでは全然違う。日本で語られる・流される話は99%、安全地帯からだ。むしろ危険はスマホやパソコンで発話されてるかもしれない。私のブログも時々危険な発言も多い気もするし、ある人から「宗教の話は書かない方がいいのでは。神を信じてる人もいるし、仏の子もいるんだから気をつけようと」とアドバイスが来た。私は「いまの時代こそ、宗教が前面に出ている時代ではないのか」と返信しておいた。

あるとき20歳年下の社員とメールをしたら「感嘆符」とか「あざす!」とか「ゴチになりす」とかすべて省略形の返信メールを受け取ったときは、びっくりした。私は20歳あなたより年上で、同じ営業の仕事をしている男ですよ、もっと丁寧な返答はないのか・・・・と考えたのだ。少し乱暴な対応ではないかと実感した瞬間だったが、すべてがそうではなく、個人差がすごいこともわかって安心した。丁寧な対応をする若い人はするし、できるのだと。

「場所と安全」の話だったね。自宅2階のパソコン前が一番安全かもしれない。危険要素は新千歳空港の下を走る追分活断層で起きる地震と恵庭岳噴火、航空自衛隊のジェット機が落下、そして妻との口論で刺されることくらいだ。妻は刑務所へは入りたくないと言っていたから、私が追い出されてチョン。しかし、家庭は昔は一番安全な場所ではあったのに、家庭の中から起きる事件が多発だ。基本は全員で食事をするということをしなくなった(できなくなった)。食事をしていてもそこで会話が上手にされていないこと。それぞれがスマホピコピコではね。小さなときから一緒にお互いの顔色を観察しながら食事タイムを過ごしていれば、信頼は育つと思うのは楽観的過ぎるか。

その後、子供たちは家を出て、自分の食い扶持を稼いで1年に1回帰宅するぐらいが、ときに婚約者を連れて帰ってくる、そういう光景が多かった。私は生まれ育った札幌を脱出したくてしょうがなかった。失敗。京都へ行きたかった。

 

不便の効用

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昭和20年代 北海道江別市
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町内にある井戸ポンプ。井戸端会議会場だ。

時代は集中管理や便利さ、均一化、スムースさへ向かってるかに見えるが果たしてその未来に何が横たわっているのか?私自身、グーグルのWORDPRESSでブログを書きながら語るのも変だけど、いつ停電が発生し、電気で機能するライフラインが停止するか、交通機関も以前はディーゼルで煙を吐き出しながら、音もうるさく走っていたが、電流の力を借りずに自力で走っていて、架線にタコが引っ掛かかり事件で止まることはなかった。

水道も私の5歳や6歳までは、自宅に大きな甕(カメ)があって、井戸水や長屋の中心にある水道栓まで行き、水汲み仕事をしたものである。自宅横に石炭箱があって、子供の仕事は居間に置いてある石炭を絶やさないことだ。マキストーブの家は、秋になれば自宅横で木々を鉞(まさかり)切り冬に備える。火傷やケガは付き物で、鼻水を垂らして非力ながら家の手伝いをした。

中には朝から新聞配達や牛乳配達人をする少年も多かった。豆腐売りも夕方にやってきて、私は母から鍋をもらって「豆腐ひとつください」と言うと小揚げを1枚サービスしてくれた。新聞紙は捨てず、水に濡らして、掃除のときに床に撒いてゴミを吸引させるし、畳の下に引いてDDTを撒いて隙間風とカビ・ノミを防ぐ。さらに母は内職で賞味期限切れのご飯を鍋で煮て、糊を作り、新聞紙で市場(いちば)で使う商品を入れる袋を作り、記憶では1枚1円で売り、内職をしていたのを覚えている。

電話はなく、地主さんや商店主の家しか設置されていなかった。緊急は電報がよく使われていた。道は砂利道でアスファルトもなく、そもそも車の台数が少ない。病気になれば近所の医師が大きな黒鞄を下げて、白い割烹着を着た看護婦さんを伴い、時間が遅くても往診にきてくれた。わざわざ、自宅へ駆けつけてくれるだけで、両親も体の弱かった私も治るような気がしたものである。これが私が生まれた、幼少期の札幌駅の北口の風景だ。

馬車も走り、漬物用のダイコンや石炭を売り歩いていた。馬車の後ろに掴まってスキーをした子供が、馬車の急停止で頭を打って大けがもあった。調味料の貸し借りも頻繁で、ソース・塩・醤油(昔は多様な調味料はない)、ときにはお金の貸し借りもしていたと思う。地域が共同体で生きて機能をしていた。抽象的ではない、具体的な狭い経済圏であった。貧しい家には地主は丹前や和裁・座布団つくりのアルバイトを発注し助けてくれた。

知恵遅れの子供も町の中を歩いていて、彼らは私たちと同じ空間に生きていた。彼らは悪いことはしなかった。中学になって特殊学級という制度ができたと思う。仲良く運動会もして、修学旅行も彼らと行動をともにし、同じ部屋で寝た。良いことも悪いことも、表の社会に見えた時代、誰でも共通なコモンセンスの中で、地域で安心して暮らしていた。不便がかえって助け合いを生んでいた。不便は見えないところで効能があるのだ。