黄色いエプロンの会。。本のリサイクル市開催!

9月25日は、市民が待ち焦がれていた恵庭市立図書館玄関前での「本のリサイクル市」。午前10時から午後2時まで。市立図書館が開館して30年、黄色いエプロンの会も22年を超える。ボランティア組織を立ち上げたときのメンバーがいまも3人いる、もすごい。現有は17名で運営している。男7名、女10名だ。平均年齢は若くはない。テーブルの貸し出しなど図書館側からの助っ人と近所の女子大生も4人来てくれて重い本を軽々と持ち上げてくれた。

運動の趣旨は、市民が不要な本を図書館玄関の白いBOXに入れてもらい、毎週火曜日と金曜10時から2時間、出版年月を調べ値付けをして、ジャンルを別に分ける。児童書、実用書、文庫本、単行本、新書、美術や写真集の6つのカテゴリーで整理。整理された本を毎年6月と9月の日曜日に市民へ超格安で買ってもらう。収益金で普段買えない高価な本を購入する。1冊の本の売値は10円から50円くらいだ。

私は美術書担当。美術全集のバラ本が多くて今回は売り上げはあまり期待できない。しかし、ビートルズのカタログ5冊あるので500エ円で強気に付けたら売れた!これにはエリザベスの国葬もあったかも。手塚治虫のブラックジャック全巻は1000円で6月にも売れた。しかし、どこかの喫茶店の棚にあったのかタバコの匂いがしみ込んでいた。「アドルフに告ぐ」もすぐに売れた(というか妻が欲しがっていた)。いま欲しいのは「火の鳥」の大判だがBOXに捨てられていない。長い間、イベントに携わっていると「業者」も来ている。「万引きがあちこちである」という話も聞くが、許容範囲だ。

黄色いエプロンの会は必ずしも本好きだけが集まるわけではない。「誰かのお役に立てたい。家にいても退屈、誰かとおしゃべりしたい」など動機はそれぞれ。美術書の中に「大東亜戦争の記録」という10冊本があった。会の代表は「こんなの絶対に売れないよ」。私はこの町は「自衛隊の町。マニアで買う人いると思う」で100円を賭けた。売れた。20円30円の単行本の中に新興宗教本が多く混ざるようになっている。一度は読んで捨てられている。次の人は買わない、残る場合は廃棄処分だ。

児童書は1冊1冊消毒をしているから、きれいな本が多いから人気だ。芝生に座って子供たちは集中して読んでいる。漫画や趣味本、実用書はお母さんがたくさん並んでいる。近所の文教大学の女子大生4人が来てくれて接客と段ボールに入った本を2段3段と持ち上げて運んでくれた。力持ちというか若さを身近で感じたものだ。売り上げ結果は10万円を無事に超えた。めでたしめでたし。この中から図書館に寄贈する。

こういう活動を全国の小さな自治体で始めると活気づくと思いますね。埼玉の本好きの知人が「いい活動だ」と褒めてくれた。「そちらでも活動してみたら?」と提案はしているんだけどね。(1)図書館の協力(2)中心人物の確定(3)不要本投函BOXを玄関に設置できること。(4)毎週2回、図書整理するボランティアを最低15人集める。

そしてこの会の長続きする要因は、行きたくなければ行かなくていい(誰にも連絡の必要ない)ボランティアの勝手気ままを許容していること。無組織の組織だ。短期バイトを持ちながらボランティアしている人も多い。

全国に普及してほしい。

鞘を失った言葉は暴走する。藤原智美著『検索バカ』から

ここで言う鞘とはたとえば手紙では『拝啓 お変わりございませんでしょうか』という時候挨拶、よその家に行ったとき、玄関口で丁寧な挨拶をする習慣、顔を合わせたらまず、形式的ではあっても『お変わりございませんか』という長年の習慣言葉のことである。鞘は『形式』の別名でもある。

言葉が武器であると思えば、その武器は鞘に納めてから語られると相手に危害を加えない。売り言葉に買い言葉は、どちらも『鞘』を外したまま言葉を発する行為にほかならない。2ちゃんねるはじめ匿名で毀誉褒貶の言葉を書く行為は、もう『鞘』はどこかにぶん投げて、鞘から出た鋭い剣のある言葉で相手を突き刺す。ブログ炎上も『鞘を捨てた言葉の戦場になっていて』礼儀も何もあったものではない状況だ。会ったこともない、話したこともない人からのののしりは、心身とも極度の疲労に追い込まれると炎上したことのある人は言う。1万や2万の匿名集団からの攻撃は毒を塗った吹き矢に当たり続けるようなもの。多数の人につながるメリットとデメリットがあって、また人間は『ジキル氏の面とハイド氏の面があるからいつどこで入れ替わるものやら』という認識だけは持っていたいものである。夜に書く手紙と昼に書く手紙が内容もトーンも全然違う、感情の入れ方が別人の様相を呈していることに気づいた人は多いはず。

理想的な言葉のやり取りは、初めは近況報告から入り、そして様々な話題へ、別れるときは次回の再開を期してサヨナラする。書けばあたりまえのことではあるが、鞘がないと『おい、生きてたか?』『何やってんだよ』といきなりこんな日本語を吐かれたら不快だろうと思う。相当親しい間柄でも(間柄だから)丁寧さは必要だ。夫婦間で『おい、こらっ』と夫が妻をなじると『何よ、その言い方!』とケンカ突入必至。最近、増えてる熟年離婚も永年積もり積もった沈殿していた怒りが爆発の結果が多い。犠牲はいつも子供だが別れた方が幸せに近づく場合もある。『鞘』を把持しながら何十年も結婚生活を続けるのは、しかし奇跡に近い。どちらかが(どちらも)我慢我慢だ。

話題変わって、政治において『鞘』は憲法であって、則を超えない言動が求められるが『2ちゃんねる』を真似したのか、暴走し続けている。暴走している列車に同乗している人は静止しているように見えるが外から見ると同じく暴走してる場合も多く困ったものである。言論のお手本CDでもつくれば、いまの時代に売れるかもしれない。経営者編、プレゼ編、政治家編、学生編。夫婦編も。とにかく身近に生きたお手本になる人間が一斉に消えたような気がする。知識ではなくて知性が匂う人。物知りではなく人を知っている人。総じて教養のある人が消えてしまった。

ところで『教養っていったい何?』と聞かれると筆者も実はわからないのだ。空気を読むより自分の価値観をドンと提示できる勇気のある人、権力に拍手、拍手の付和雷同をしない人。そんなとこだろうか。忘れていた、教養のある人は『いい顔をしている』。いい顔ってどんな顔?自分で探しましょう。親父だったりして。

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ジャガイモと北海道について。

日本中で野菜の高騰が続く。円安が進む中、輸入する食料や牧畜の飼料も上がり、食料危機が迫る中、安定しているのがジャガイモ。インカが世界に贈ったプレゼントだ。

全国のジャガイモ生産の75%を占める北海道の話。明治以降、稲作は寒冷地での品種改良も遅れて進まなかった。できても硬いお米であった。北海道米は水分が少なくチャーハンには適してはいただろうが、やわらかさや甘みについて劣り、美味しい米なら本州米が相場であった。ササニシキや秋田小町は憧れの米であった。私が山形に行ったとき食べた夕食のご飯が『なんだこりゃ、もち米ではないか!』と仰天するくらい美味しかった。おかずは要らず、ご飯だけモリモリ食べた。奇跡の味であった。あれから50年、いまや品種改良で道産米は・ユメピリカはじめ最高級ブランドに。

それほど本州で食べられていた美味しい米は長い間、北海道では作れずにきたのである。そのかわり、道内ではジャガイモが盛んに栽培されてきた。寛政年間(1789年~1801年)にロシア人が北海道や東北に伝え、エゾイモと呼ばれていた。しかし、それは観賞用の植物としてで(白い花や紫の花が咲く)食用ではない。ロシアが北からジャガイモを最初に持ってきたとは驚きである。

1871年(明治4年)にアメリカの農務長官ホーレスケプロンが来道、北海道の寒冷地でどんな作物を作ったらいいのか、開拓史の農園を作った。goverment farmといわれ、外国の農業技術を導入し、作物の開発・指導をするである。小麦やトウモロコシの種をアメリカから仕入れた。同時に牛や豚や羊の飼育も始めている。

明治6年には牧畜の父といわれるエドウインン・ダンもお雇い外国人として赴任。馬を中心に耕作用として牧場を作った。さらに、明治9年札幌に赴任した農業家ルイス・ボーマーが様々な作物の試験について開拓史へ報告。馬鈴薯(バレイショ)についてボーマーは『愛蘭(アイルランド)種馬鈴薯はことのほか好成績を収めました。北海道でのこの上々の成功は、私が初めて経験するところのものです』しかし、バレイショは病害に弱くて外国では飢饉が頻発する地域もあったが、ボーマーは『北海道のバレイショは強健で粉状を呈し病害を蒙ることなし』と報告、この作物が北海道の気候に適していることにいち早く着目していた。(『ケプロンの教えと現術生徒』冨士田金輔)(*現術という言葉は初めてみた言葉である)

冷害に強いバレイショは開拓民の食糧として作られた。明治30年以降、でん粉製造技術の発展していき、第一次世界大戦では英国への輸出品目にもなっている。(『北海道の歴史と風土』創土社)。これが広い十勝、最強の士幌農協に現在では成長して、東洋一の澱粉工場、ポテトチップ工場、発芽抑制のためのコバルト照射センターその他流通倉庫を所有している。士幌の農民所得は大企業で働く高給取りの実態に近いくらいだ。

カルビーのポテトチップスの原料は『トヨシロ』という種類のジャガイモなので、千歳のカルビー工場見学(現在改修中で工場見学できない)の際、係員も教えてくれる。余談ながら『ジャガポックル』は千歳ですべて作られている。北海道の開拓といえば、クラーク博士の『少年よ野心(ambitious)を抱け』で有名だが、思想的にはそうかもしれないが、開拓民は農学校とは関係ないところで生きていたので、鉄の耕作機械のフラウの使用や馬や牛、羊を連れてきたり、ジャガイモの種を持ってきて植えて、命をつなげてくれたお雇い外国人の役割がケプロンやエドウィンダンの役割がとんでもなく大きいのであることを再確認したい。BE FARMER(!農民たれ)でも残していたらよかったのに。

ホーレスケプロンの銅像は黒田清隆の像と並んで大通り10丁目にあるから見学して欲しい。ケプロンが麦やホップも植えることを提唱、これがなければ大日本麦酒(サッポロビールの前身)への払い下げの殖産興業もなかったかもしれない。エドウインンダンの記念館は北大の中にあるし、第二農場として残っている。ここに農作業をする馬がたくさん飼われていた。