匿名と実名

私の育った環境は、実名が当たり前の世界であった。高校や大学の合格発表も堂々と新聞に掲載されていた。生まれた子供の氏名や住所も新聞に載り、今ではお悔み欄でさえ希望者だけ掲載される(約半分しか希望しないと葬祭業者)。実名で生きられると言うことは、私の生きていた地域共同体が十分機能していて、何かがあっても隣のおじさんやおばさんが守ってくれる世間があった。

いつ頃からこの発表習慣が消えたのか?特に子どもが生まれると祝い品業者が営業に来たりDMの山、電話攻勢で若夫婦が参ってしまい、無くなったのはわかるが、それ以外は、別に発表しても無害と思われるのだが、どうだろうか。そうでありながら、警察や道庁・教員の人事だけはしっかり新聞に掲載される愚かしさ。これこそ必要のないもの。新聞を読む人が減っているから、いずれこれも届かなくなる。

そういう狭い話ではなくて、「匿名」って一体なんだろう?という話だ。一番の匿名性は軍隊かもしれない。ゴヤの絵でフランス軍に処刑されるスペイン人の油絵で、銃を撃つ側には顔がない。(ナポレオン軍だ)。撃たれる民衆は一人ひとり顔がある。攻撃する側には顔を隠す性質がある。ISISの顔隠し覆面も似ている。銀行強盗も目差し帽多いよね。

一対一の肉弾戦ならわかるが、武器が銃や爆弾やミサイルになると、具体的な武器を使用した人の顔が消える。消さないと人間として実行できない良心がまだ残っているのかもしれない。希望的観測だけど。ユニフォームを着ると性格が(思考が)変わる人も多い。男の場合はスーツとネクタイ、首から下げるIDカード、社章を誇らしげに(勲章のように)付ける人もいる。しかも集団で動いている場面が多い。企業戦士だ。

いずれ全て外す時が来る。それ以上に、私が気になるのは、彼らの使うビジネス会話の定型性だ。たぶんそれを超えるには、圧倒的な教養度の高い人や広い人間関係ネットワークを持つ人を横で観察しないと会得できないところだ。この部分は匿名ではあり得ない、具体的な人間関係そのものだから。

実名行為をたくさん積んだ後に、「匿名の世界に」入るなら問題が少ない。しかし、いま問題なのは初めから「匿名の世界に生きることを選んだ」ネット住人、SNS利用者だ。語り口や非難や侮蔑は字数制限もあって必要最小限の表現は達人でないと難しい。匿名の世界は攻撃的になりやすいから、次々傷つけごっこになる。そうなら、沈黙の方が賢いと思う。匿名の持つ攻撃性や毒気を吐かぬよう最大限の配慮をしようという平凡な結論に落ち着く。実名には責任が後ろに張り付いている。「・・・らしい。・・・という噂だ。・・・と言われている。みんな〇〇〇だ。」この表現には発話者の主体がない、身体がない。気をつけたい。

人間には行方不明の時間が必要です(茨木のり子)

出だしの5行はこうだ。(谷川俊太郎選 茨木のり子詩集 岩波文庫 256p)

人間には行方不明の時間が必要です

なぜかはわからないけれど

そんなふうに囁くものがあるのです

三十分であれ 一時間であれ

ポワンと一人なにものからも離れて

うたたねにしろ

瞑想にしろ

不埒なことをいたすにしろ

GPSや携帯でいつでも自分の所在地が明示されたり、呼ばれる昨今、『うるさいな、ひとりにしてくれよ』と思う人も多いはず。『いま、どこにいるの?誰といるの?』生死に関わる連絡ならまだしも便利さを悪用する寂しい人たち。行方不明の時間で実は自分自身を発見することが多い。好奇心もわいてくる。長い行方不明は事件になるけれど短い時間なら楽しいものだ。通勤時間も行方不明の時間にも思えてくる。帰宅までは謎の時間だ。パチンコするのもよし本屋やCD、立ち飲みやで一杯もいい。毎日行方不明の時間をつくりたいものだ。帰宅電車の中、適当な距離をとってたくさんの行方不明者が乗っている。その昔、デートをしていたとき、別れるとき寂しいというより「一人になれてほっとした瞬間」ってなかったろうか?

それにしても一人になるのはむつかしい。なぜ一人が大事かと言うと「自分で考える」「自分の手を動かす」「溜息をついたり」「あくびをしたり」「死んだ親父やおふくろのことを考えたり」「あいつにまずい発言をして、あれってパワハラにならないか」「あいつ50歳目前で営業職を辞めて次にどうしようとしているんだろうか」。身近な本を読んでいると1時間は過ぎていくがほとんど夜中の時間だ。昼間にもこういう時間がたくさん欲しいものだ。

不便の効用

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町内にある井戸ポンプ。井戸端会議会場だ。

時代は集中管理や便利さ、均一化、スムースさへ向かってるかに見えるが果たしてその未来に何が横たわっているのか?私自身、WORDPRESSでブログを書きながら語るのも変だけど、いつ停電が発生し、電気で機能するライフラインが停止するか、交通機関も以前はディーゼルで煙を吐き出しながら、音もうるさく走っていたが、電流の力を借りずに自力で走っていて、架線にタコが引っ掛かかり事件で止まることはなかった。

水道も私の5歳や6歳までは、自宅に大きな甕(カメ)があって、井戸水や長屋の中心にある水道栓まで行き、水汲み仕事をしたものである。自宅横に石炭箱があって、子供の仕事は居間に置いてある石炭を絶やさないことだ。マキストーブの家は、秋になれば自宅横で木々を鉞(まさかり)切り冬に備える。火傷やケガは付き物で、鼻水を垂らして非力ながら家の手伝いをした。

中には朝から新聞配達や牛乳配達人をする少年も多かった。豆腐売りも夕方にやってきて、私は母から鍋をもらって「豆腐ひとつください」と言うと小揚げを1枚サービスしてくれた。新聞紙は捨てず、水に濡らして、掃除のときに床に撒いてゴミを吸引させるし、畳の下に引いてDDTを撒いて隙間風とカビ・ノミを防ぐ。さらに母は内職で賞味期限切れのご飯を鍋で煮て、糊を作り、新聞紙で市場(いちば)で使う商品を入れる袋を作り、記憶では1枚1円で売り、内職をしていたのを覚えている。

電話はなく、地主さんや商店主の家しか設置されていなかった。緊急は電報がよく使われていた。道は砂利道でアスファルトもなく、そもそも車の台数が少ない。病気になれば近所の医師が大きな黒鞄を下げて、白い割烹着を着た看護婦さんを伴い、時間が遅くても往診にきてくれた。わざわざ、自宅へ駆けつけてくれるだけで、両親も体の弱かった私も治るような気がしたものである。これが私が生まれた、幼少期の札幌駅の北口の風景だ。

馬車も走り、漬物用のダイコンや石炭を売り歩いていた。馬車の後ろに掴まってスキーをした子供が、馬車の急停止で頭を打って大けがもあった。調味料の貸し借りも頻繁で、ソース・塩・醤油(昔は多様な調味料はない)、ときにはお金の貸し借りもしていたと思う。地域が共同体で生きて機能をしていた。抽象的ではない、具体的な狭い経済圏であった。貧しい家には地主は丹前や和裁・座布団つくりのアルバイトを発注し助けてくれた。

知恵遅れの子供も町の中を歩いていて、彼らは私たちと同じ空間に生きていた。彼らは悪いことはしなかった。中学になって特殊学級という制度ができたと思う。仲良く運動会もして、修学旅行も彼らと行動をともにし、同じ部屋で寝た。良いことも悪いことも、表の社会に見えた時代、誰でも共通なコモンセンスの中で、地域で安心して暮らしていた。不便がかえって助け合いを生んでいた。不便は見えないところで効能があるのだ。