バックヤードから考えたこと(1)

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糖尿の血糖値が下がらないので、知り合いのホテル経営者から筆者に働きなよというアドバイスもあって、札幌での飲み代を稼ごうと妻の反対を押し切って(心臓の持病)4月16日(土)から週末の2日間、宿泊客の部屋の清掃やシーツはがしをしてきた。午前9時から午後3時までが勝負だ。日曜は土曜より100室多い稼働でクタクタになってしまった。体重が1キロ減る。

広告営業をしていたときに老舗のホテルを営業していたが、裏側は表の明るさとは裏腹に暗かった。パーティーの前だと、乗せられる料理が中華を含めてビニール掛けられてはいるが、あんまり美味しそうではない。裏側の暗さはホテルに限らずデパートでもそうだ。社員専用エレベーの中では、お客さんへの対応マニュアルのアナウンスもある。「嫌だ、嫌だ画一性!」。

私はまず、全体の総責任者から言葉使いについて苦言された。「(お疲れさま)・・ではなく(お疲れ様です)とデスを入れてください」と。上目線の言葉遣いでダメだと。一番のペーペーが生意気な口をきくなとパンチを食らった。緊張感や全体の秩序を乱す素が言葉使いにあり、なるほどそうかもしれない。ひとつ勉強させてもらった。子供時代から注意散漫、落ち着きない子供であって、だから動き回る営業が性に合ったのかもしれない。親しみを込めた溜め口がいけなかった。こちらは親愛の情で言っても許されないらしい。下町や落語の世界がいいね、全く。

ところで、いろんな場所の後ろ側をバックヤードという。これまで、たくさんのホテルに泊まり、こういう仕事を毎日している人たちが支えているんだと改めて思った次第だ。北海道も御多分に漏れず、爆買や東南アジアからの観光客が多く、どのホテルも団体客で溢れているから、部屋を清掃・ベッドメイクする人たちは大募集だ。電車の清掃や地下街の清掃、待合室の清掃、エスカレーターの手すりまでタオルを当てて汚れを若い女性が落としている。

私の良くいく居酒屋も0時を過ぎると洗い場の食器を明日のために全部洗う。私の欠陥は日常生活だ、部屋は汚い、ベッドは散乱、ワンパターンな料理、アイロンかけられず。妻は私が長生きした場合を想定して料理教室へ通うことを望んでいる。そういう男がホテルで清掃をしてくるんだから、世の中わからない。清掃の世界だけではなくて、いまや派遣業務もバックヤードに似ている。毎日、見るテレビもカメラを回す人たちは関連会社の下請けだったり、新聞配達も朝の4時から配る販売店のアルバイトの人たちだ。バックヤードは奥が深い。

愛知県の三河・岡崎に20代に10か月住んだだことがあるが、刈谷などは狭い路地に車のミラーだけ積んでいたり、部品の山を見ていた。これがでトヨタへ送られ、不景気になれば納入単価を下げられたり、辛い思いをするんだろうなと思った。新車一台を作るために、どれだけの部品数と手間と犠牲があるのかも時々考えたいことである。首都圏に住む人たちの食料バックヤードや電気を供給している他県を、たえず心に思い浮かべて日常を送っているだろうか。岡崎で九州から集団就職で来て、辞めてきた(逃げてきた)人に多く会った。逃げないよう、九州に部品工場をたくさん持ったトヨタだったが今回の地震で部品供給を変更せざる負えない。

それにしても、この仕事は65歳になって始める仕事ではないかもしれない。ゴールデンウィークまでもてばいい方だ。昨年は農家の草取り6時間でダウン。どうも肉体の鍛え方が甘い自分だ。

「進歩」という言葉を聞かなくなった。

熊本県の地震と阿蘇の周辺都市が次々と大地の大揺れ。震源が大分県へ移動しようとしてる。娘が大分で暮らしているので気が気でない。すでに防災袋を用意して万一に備えてる。4歳の孫が娘の地震を知らせる携帯のブザーやテレビに入る地震速報のチャイムにナーバスになっている。早く終息することを祈るしかない。すでに4万人を超える熊本県人がいる。フェリーや使っていない客船を海に浮かべて、そこを宿にすればトイレや睡眠、余震の恐怖から一時的に解放されると思うがどうだろうか。こういうとき、昔の青函連絡船が保存されていればと思う。子供・老人・女性を最優先に船に乗せる。

 

すっかり「進歩」という言葉が消えてしまった、使う人が稀な言葉になってしまった。科学技術が発達すればそれに比例して、人間の文化や生活が豊かになり、幸福になり、人間の徳まで上がるかもしれないという期待を込めた概念だった。

歴史からいうと18世紀のヨーロッパ啓蒙主義のころから始まるらしい。ジャン・ジャック・ルソーは教育論で、カントは哲学や永遠の平和を模索して理性への信頼に向けて、皮肉家ヴォルテールも知識の集積・百科事典的な物知りになれば、賢い進歩的な人間が数多く輩出して素晴らしい世の中になると考えられた。

19世紀末も芸術では退廃的な詩や絵画が多い世紀末芸術でも、細分化された機械工業がアジアやアフリカを植民地化して経済が潤う時代を謳歌していた。歴史を概観すると「進歩の概念はアジアやアフリカ・中東・南米などを植民地にした大陸ヨーロッパだから出てきた概念」だろうと思うし、実態はそうだ。それが、現代は時代が野蛮な・残酷な時代、空からの無人の爆撃機による殺傷を平気でできる、さらにロボットで敵側を殺す兵器まで造り上げてしまった。

科学技術はいつの時代もまずは、軍事力の応用、戦争のための(つまりは人殺し)技術として歩んできた。医学も第一次世界大戦でヨーロッパ国内で死傷者が続出して、それを治すために整形外科が発達してきた。義手や義足を含めて。だから、殺す一方ではなくて直す医療、看護する医療も出て来てはいるけれど、屍累々の20世紀と21世紀は後世の歴史家は、なんと表現するのか?

「暗澹たる歴史」「自ら光明を捨てた人類」「自殺行為と他殺行為の平行現象」「狂暴化した人類」「一神教の狂暴化」。どういう表現をされるのか。憎しみは乾いた感情なので火が付きやすい。何とか潤いの水をかけれないか。時間の経過とともに人間が野蛮化してきているみたく思うのは私だけだろうか?1970年3月開催の大阪万博のテーマが「人類の進歩と調和」だった。いまはどうだ。「人類の退歩と破壊」かもしれない。そして自分の無力を知る。

あまりたくさん選択肢があると選べない(品物・仕事)

Young man looking at bottles of oil in market, rear view, close-up

同じカテゴリーの品物の種類が多過ぎると、迷ってしまって結局、何も買わないで素通りしたことはないだろうか?よく出される例がネクタイだ。何百本というネクタイを置くより、せいぜい50本やそこらの方が良く売れる。色もブルーか紺に統一するとさらに効率がいいらしい。選ぶ範囲をあらかじめ固定された方がお客はお金を出しやすい。

例外は、その道に通じているいわゆる通人だ。こだわりを強く主張する彼らは、しかし少数なので、大勢に影響はない。とはいえ、ネットを使えば拡散するからあなどれない。

コンビニは商品アイテムが限定的で、選ぶ余地があるようでないから売れる。しかも、スーパーより同じ商品が高くても売れる。歩く距離も少なくて済む。限られた売り場面積なので、メーカーの棚の取り合いは激しい。あの狭さと多くの商品を置けない限定性が売上を伸ばしているともいえる。

携帯電話各社の店舗面積を見てみると、さらに並べられているスマホやタブレットを置くスペースは狭い。決まったメーカーの商品だから、膨大な種類のスマホや携帯ではないから、客は選びやすい。巨大スーパーに入っても、食料品を除けば、単体の専門ショップの箱が積み上げられているだけで、小さな売り場を合計していると同じだ。

私は少年時代、近所の食料品店、豆腐屋、駄菓子屋、文房具兼本屋などで育っているので、狭い専門店が性に合う。デパートは苦手。敷居が高い。入っても地下の食品売り場以外は照明も派手で、すぐに売り子さんは来るし、行かない。貧乏性になってしまって、これだけは歳を重ねても治らない。学習するのは30代や40代で、50を過ぎると、少年時代の癖や好みが前面に出てくる。メッキがはがれて地金が出てくる。

読む本も、借りるDVDも似たような傾向(実は趣味のコアな部分)で、ひどいときには前に借りた映画を再度借りることになる。選択肢がたくさんあっても、初めから、選ぶ範囲(ジャンル)を限定してお店に行くと選ぶのは楽であるが繰り返し選ぶ癖が出て、冒険が無くなる。人間は楽と苦の十字街に立つと楽な道を選ぶ傾向があるが、たまに苦を選んでみると新天地が開ける。自分で考える以上に自分にいろいろな能力が備わってることがわかる。

例は悪いが、私が29歳のとき勤めていた会社が業績不振で31歳の女子社員が解雇された。それで筆者に「労働組合をつくって委員長になって」と他の女子社員たちから言われた。組合を作り、1年間、札幌地裁で民事裁判をすることになった。裁判に勝って彼女は職場復帰したが、私は精神的に疲れて退社。数社の会社を転々、定年まで勤められる会社に33歳でようやく職を得た。

無数に勤められる会社があっても(選択肢あっても)選ぶのは一つ。当たり前といえば当たり前だけど、辞めると一瞬、自分の前に無限の可能性が広がるように錯覚するが、実はそれは苦を選択してる場合も多い。一つを見つけるまでが大変である。見つけるまでにたくさんの偶然が介在している。筆者が定年まで勤めることになった会社は30歳までの求人であったが、電話をかけると「営業経験者なら履歴書を出すだけなら出して」と返事。アバウトな総務の人が出てくれたおかげで、面接を経て採用された。思い立ったら吉日。このときの選択肢は「履歴書を出すか、出さないか」二つに一つだったから出すに越したことはない。結果は神のみぞ知る。が、それによって害があるわけでもない。次に進めばいい。