存在の耐えられない重さ=夫(過去ブログの追加記事)

私が住む団地周辺は現役より定年後の暮らしをしている人が多い。勤めに札幌まで週に3回とはいえ、通勤しているのは筆者くらいかもしれない。で、思うのは夫婦が元気なら動けるうちは働いたほうがいい。どちらかが体力低下やリハビリで送らないといけないならいたしかたないけれど。

存在の耐えられない重さ=夫。

連休は2階に生息していた私であるが、買い物は運転手&お手伝いをしているが、さすがに長居をすると(自分名義の家屋ながら)、夫は『存在の耐えられない重さ』になるみたいだ。子供はまだかわいいから耐えらえる!?しかし、仕事を抱えてさらに子供のごはん作りと買い物、エンゲル係数急増なら奥さんのイライラ感も募るというもの。そこにいま流行りの自宅での仕事をする夫がいたとしたら、奥さんが一人になれる『聖域』が消えてしまう。ワンフロアのマンションなら数日ならまだ我慢できるが、これが長期間となれば夫へ『どこかに出て行って、私を一人にしてくださいな』という妻の言い分もわかる気がする。妻も自宅でリモートワークなら自宅に二つの企業の営業所ができたようなもの。家賃を払い、子供の習い事、食費、各種ローンあれば、未来の資金設計の展望が夫の勤め先が売上縮小なら不安倍増だ。一寸先は闇の世界が広がっている。27歳から働いてきた私だが、こういう国家同士の鎖国状態、国の間でも都道府県間の行き来制限。飛行機の自由往来が減って、江戸時代の関所が復活したような気分になる。話題がそれた、夫の存在の耐えらえない重さですね。ガレージがあればその中に逃げるとか,物置を改造するとか、近くに親の家があれば部屋を借りてWi-Fi環境にするのもいい。しかし、世の中そううまくはできていない。もともと夫婦仲が良くなかった(震度1)のが、自宅勤務で不満爆発(震度4)とでも解釈したほうが自然な解釈かもしれない!?これを言ったらおしまいかも。また、こういうのはどうだろう?妻の言葉の射撃砲に耐えらえない夫たち・・・でも話は通じる。怖い怖い、愚痴のブログでした。

平凡に暮らすのは至難!

熊本・鹿児島・長崎・佐賀・福岡・大分各県の豪雨被害の映像を見て絶句するばかりだ。昔書いた平凡に暮らすむつかしさ。

平凡に暮らすのは至難!?

69年を生きてきて、同世代の近所の旦那さん方が49歳、53歳、55歳、52歳、60歳で病気や事故で亡くなると、『平凡で普通に暮らす。静かに暮らす』ことは奇跡ではないかという思いが日々強くなる。同世代以上の長生きがいたとしても、早くに亡くなった人をやはり思う。黒澤明の《「生きる」言葉》の中に『普通に生きることが一番むつかしい』がよみがえる。普通って何?と聞かれても、基準があるようで実はない。人生に平均はない。昨日のような今日があって明日もきっと太陽が昇って沈んでいく・・・


それが突然のミサイル落下、配偶者の病気、子供の事故、貸し倒れや自己破産、交通事故、突然のリストラ、大地震で自宅消失、原発事故での居住変更と移住、白血病発症の不安増加、見知らぬ通り魔に襲われるなど不幸な種は数え上げればキリがない。芸能人や政治家にだけ事件やスキャンダルが襲うわけではない。公平に皆にも襲ってくる。平凡さに飽きて、「何かおもしろいことはないか」「どこかに美味しい店はないか」「イベントをやってないか」「いまの流行は何だ」など変化を絶えず探し求めて刺激を求める現代だ。電波からチラシからポスターから「イベントだらけ」「イベント漬け」に市民を洗脳してしまっている。(コロナ禍の現在は少し違う)

そういう社会の中で、平凡に普通に暮らすのは至難の業である。私も正直この平凡さや普通って具体的にわかるようでわからない。しかし、私自身が救急車で運ばれたり、子供がケガをした、具合悪そうで迎えにきてくれと学校から知らせがあったり、母から「お父さんがトイレで動かなくなった」と電話があって、葬式の準備を考えながらアイスバーンの冬道を走った2月4日の真夜中を思い出すと、「何もないことがありがたい」という意味がわかる。

反対に「無事に生き返って退院できた」「無事に希望の大学に合格した」「無事に孫を出産した」「無事に事故もなく帰郷した」「無事に通夜と葬儀を終えた」。共通は「無事に」という副詞である。無事に案件は終わり、普通の日常に戻るということだ。空から危険なものが降らず、突然、刃物を持った人が玄関口に立つこともなく、たんたんと日々が過ぎてゆく。ある日、突然の人生の中断があっても、ここまで生きてきたのだから許容する覚悟だけは持とうと毎日努めるだけである。コロナウィルスとどう共生したらよいのか私も模索している。世界中が「コロナ鬱」になってる状況だし。マスクを外して、青い空を見上げながら歩きたい。

あの人の近くにいると何か変わる!

あの人のそばにいておしゃべりすると、刺激的な言葉が飛び出してきて、自分の大脳が活性化される。そういう人もいれば、どうもこの人は日常あんまり自分の頭で考えないで、言葉が脊髄反射的にポンポン飛び出すだけのつまらない人もいる。男女に関係ない。札幌はビジネスマンが通る道は限られていて、知り合いの人に遭遇する機会が多い。いきおい、立ち話やベンチに腰かけて近況報告会が始まる。最後に『ところできょうの夜、東京から大事なお客が来てススキノで接待する予定だが、1万円ほど貸してもらえないか』と無心する人がいたり、突然電話が来て『しばらくご無沙汰です。久々に会わないか?』と競馬新聞を丸めてやってくる知人もいた。彼曰く『福岡にいる母が体調が悪くて行かなければいけない。妻からカード使用禁止令が出ていてお金がないので5~6万円貸してもらえないか。』とか、見え見えの嘘をつく。すべて断った。在籍した広告業界では、とにかくお金に関するスキャンダルだらけ。スポンサーも仕事を出す代わりに接待を営業マンにたかってくる。ひとりで接待するのではなく必ず、伝票にサインする上司を連れていくことを忘れない。同僚を同じ穴のムジナにする。部全体の横領事件もあったが、チェック責任者も横領していたのだから呆れる。それを見逃した総務や会計事務所も同罪。事件の発端はある転職してきた女性から始まると言われているが真相はわからない。知らないうちに汚染(横領)が広がっていった。あの人の近くの人は金銭感覚が狂っていった。自分の身銭で飲み食いするならできないことを平気でする人間になってしまう。私もススキノの有名居酒屋や値段の高い寿司屋、ホテルのバーで経費での飲み食いをバブル時していたから偉そうなことは言えないが、サインで飲み食いできるのはけっこう快感であった。癖になることは体験としてあるので怖い。私は下戸で酒は飲めないので短時間で食べて終わった、弁解がましいが。その私を真似て違う営業がその店を利用するという習慣が続いたから私の責任も恥ずかしいがある。ところで、あの人の近くにいると、おしゃべりすると世間知が広がる人もいる。元アナウンサーで広い人間関係を持って、エピソードを入れて話してくれる。物事をまとめる力、話術の力を目の前で展開してくれるありがたい人である。