人生は暇つぶし!?

ローマ時代の哲学者セネカ「人生の短さ」についての中に、『われわれは短い時間をもってるのではなく、実はその多くを浪費しているのである。人生は十分に長く、その全体が有効に費やされるならば最も偉大なことをも完成できるほど豊富に与えらえている」(岩波文庫 9p)

人生は暇つぶし!?

何だか不遜なタイトルで、毎日、病気と戦ってる人、誰かの連帯保証人で苦しんでいる人、夫婦離婚寸前の人、子供が引きこもって出て行かず、鬱に近い状態になってる人、会社やクラスでシカトを受けたり、イジメに会ってる人からみたら(何をほざくか)という声も聞こえてくるが、ここは辛抱をして読んでみてほしい。


まずは提案。(人生は暇つぶし)と考えてみてはどうかということである。学校や親たちや会社の先輩たちの意見と真逆な見解ではあるが、人生に閑があるから趣味や好きな学問に没頭できて、恋愛も失恋も仕事も旅行もできると考えると(暇)という代物がとんでもない化け物に見えてくる。(暇)がないと新しい文明物や発明品は全く出てこない。まず、これを押さえよう。暇は暇を感じる人の空間と時間が必要だ。一つのことに集中しいている他人を見ていると、それに向かう形相はどこか軽い狂気の世界に入ってるように見える。動物の場合であれば食べる・寝る・交尾する・排泄をする以外は(暇人な動物)にしか見えないがどこか風格がある。一方、人間は余計なビルを建てたり、穴を掘ったり、埋めたり、土管や電線を走らせ、家に電気を通し、パソコンや携帯をいじらせ、ゲームでもどうぞと時間消費させる。通信費や電力代がかかるから、それを払うために銭稼ぎをしないといけなくなる。そのため労働を売る。本屋へ行けば、読書時間を消費させる活字やCDやDVDが並んで「私を買って」と待っている。時間つぶし産業の興隆である。


映画館も時間つぶし、テレビも電気を使った紙芝居と思えばいい。共通は受身であるということ。ブログを永年書いていると、自慢ではないけれどたえず書くネタ探しに懸命だ。アンテナを張り巡らしているからウカウカできない。長いサラリーマン生活より忙しいかもしれない。週に3回の営業補助アルバイト(これもけっこう新規開拓を目途にしているからキツイ)もあるし企画書作成もある。昔の会社の後輩たちへのアドバイス、ときには同行営業もしてあげる。困ってる人いれば助ける主義だ。そして大事な読書時間をもうけないと頭がパーになるから、書店通いや他人の会話に聞き耳を立てて、現代人の思考回路分析をしないといけない。これがけっこう面白い。


こう考えてくると、「人生は暇つぶし」とテーマ設定しても、全然私自身、暇つぶしをしていない人間に思えてくるから不思議だ。「倦怠の毒」という言葉もあって、「小人、閑居して、不善をなす」ではないが、妻から「あんたは、暇になると、ろくなことをしない」と言われるが、その通りかもしれない。

イベント七転八倒の話。

イベント七転八倒の話。

糖尿本

全道の自治体をキャラバンして、市町村の住人を集めた「健康教室」をある団体の主催で年間2回開催していた。テーマも「笑う門には福来る」とか「脳梗塞にならないために」「糖尿病の治療最前線」「温泉健康療法」とかだ。しかし、高齢者の多い地方で確実に集客ができるのが「ボケないために」というテーマ。イベントは用意された席数を集めるため、2か月前に地元自治体の担当部署と協議して、保健課の人から明るく「150名なんて大丈夫よ。200名も来るかも」と自信を持って言われた。

湖の美しい町だった。すっかり観光気分で大船に乗った気分。ところが午後1時に開会する講演会なのに、会場の駐車場へはさっぱり町民の車が来ない。時間は45分を過ぎてあと15分。まだ20人くらいしか座っていない。ヨシこうなったら、アレしかないと私は判断。会場が地元で一番大きなホテルだったので、あらゆる部署・階にいる従業員に「制服や掃除服を至急脱いで私服に着替えてください!会場にある席に座ってください!料理人の方もお願いしまーす」。

一方、用意したパイプ椅子をどんどん片付けて200席用意した椅子を半分に。さらに後ろの衝立を前に持ってきて、会場を半分に。なんとか体裁を整えて講演開始。講演だけは無事に終えたが、最後に恒例の反省会が講師の医師を交えて実施。シーンとお悔みの反省会。タバコ好きは「ちょっとタバコを吸ってきます」と言って逃げる。当日はプレゼントに250ccのミルクがもらえるプレゼント付きだったが、この地は酪農がメーンの産業。来るわけないよなあ。しかも後でわかったことだが、この講演の1週間前に,全町で大々的に「町民健康まつり」をしたばっかりだって言われてがっくり。チグハグなイベントであった。

私は、この失敗イベントで始末書を書いた。成功したイベントより、失敗したイベントが懐かしい。お金をかけてるわけだから、人が集まるのがあたりまえ、来ないのは企画の詰めが甘いと常務からは叱られる散々のイベントだったが、仕事ができない役員から正論が出た時の腹の立ったこと。仕事ができない奴ほどよく吠える。人の失点に食らいついてくる。困った人材が多い。この点をこう改善したらいいのでは・・という提案的な話なら聞くが・・・・。さらに私のミスは続く。

 

ネットの遮断でヒステリーが起きる。

たとえ数分でもネットへの接続が遮断されればヒステリーを起こす(ホモ・デウス 181p)

ブログを毎日書く習慣ができると、自分のブログに入り、書き込めるのは当たり前と読む側から言うとそうだが、これがどうして、何度もハッカーに侵入されたりして書けない事態が3年間で4~5回はあった。

つながるのが当たり前と思わず、たまにつながればラッキーという価値観で世の中が共通しているならまだしも、いまの世の中はつながるのが当たり前、つながらないのはウィルスにやられて遮断されているか、パソコン自身の不具合かネットケーブルの不具合か、金曜の夜でネットが超混みなのか、詳しくは知らないがそういうことらしい。直すのに電源を一時切ったり、あれこれ手立てをするのだがダメなものはダメ。私のブログ管理者へ連絡して直してもらう。長いときで4~5日間かかった。

グーグル仕様なので世界じゅうのハッカーの標的になっているからヴァージョンアップの回数は凄いらしい。そこまでブログ管理者は責任は持てない。昨年9月6日の北海道全体のブラックアウト(正確には稚内など全く停電のない場所もあった)で、電気がなくなるとスマホのバッテリー補充が混乱を極めた。海外から来た観光客もそうだった。

自家発電の施設に設けられたコンセントを求めて長い列ができた。(ニュースを見るため)(親に連絡する)(友人とコンタクトを取る)など様々な目的はあっても、『たとえ数分でもネットが遮断されればヒステリー』的な状況に変わりはない。『ホモ・デウス』(下)を読み終えて、もう一度、最初から(上)を読み始めたところであるが、表題の1行があったので抜書きした次第である。

最近、若い夫婦が自分の子供へヒステリー的な暴発を繰り返す事件を見て、案外、『自分がいま楽しんでいることに子供が干渉して邪魔をされる気持ちが手や足、言葉でのパワハラになっていやしないか』と疑う私である。私も熱中してブログを書いていて、階下から妻から下へ降りてくる話にムッとすることがあるからである。遮断されることへのイライラである。

今日、都市生活、ライフラインはすべて動いて当たり前になってしまった。先日も寒波の折、水洗トイレの水が詰まり便器が溢れそうになった。2時間の外出でトイレ暖房を切ったがゆえに凍ったのである。夜のトイレは24時間営業している『道の駅』のトイレを使用しようかとも思ったが、風呂のお湯をどんどんトイレに流し込むと氷が解け出した。システムが切断したり、突然、予期せぬ事件が発生してライフライン依存症の私たちは生き延びれるのか?と思わずにいられない。北海道の真冬で起きると死者が出る世界だ。