九州国立博物館(大宰府)

6月8日に大宰府の山の上に建設された「九州国立博物館」へ。開館時間が9時半。特別展もなく700円と安い入場料。国立博物館見学はは京都に次いで2館目。木材をたくさん使用した空間づくり。大宰府天満宮にあったスターバックスも外観を木材でデザインしていた。この土地と木材の関係を調べないと。

埴輪も多く,大小撮影した埴輪を並べてみる。埴輪をつくるときの粘土が焼き物の原料ともなっていた可能性ありますね。九州は埴輪が多い、焼き物の名産品も多いですね。

不思議なことに北海道オホーツク海地方に住んでいたオロッコについて絵と説明文が置かれていた。アイヌは日本海側に南下してきてオロッコはオホーツク海側だけど、なぜここに展示されていたのかわからなかった。

一番、興味をそそったのがお店のロゴであった。ベトナムのホイハンに日本人町がつくられていた。

朱印船貿易家の角屋七郎兵衛がベトナムのホイハンに建立した「松本寺」の題字。
9万年前、阿蘇の大噴火で焦げ跡残るマツ科トウヒ属

あとは写真を掲載します。

レプリカ

心臓にガンができないわけ。

心臓にガンはできない。私はその原因を『あれだけ動・静脈が流れているから、ガンになる暇はない。毎日毎秒心臓の筋肉は動いて血液を流しているからね』と思い込んでいた。間違いである。福岡伸一ハカセ著『できそこないの男たち』(光文社)(243p)『心臓の細胞は生後2年ほどたつと、分裂することを停止する。だからその後、もし心筋梗塞などによる酸素不足で心臓の細胞が死ぬと、細胞は二度と再生されないことになる。細胞の分化と停止。…一方、細胞がもはや分裂して増殖しないゆえに心臓は決してガンになることはない。なぜならガンとは細胞分裂が制御できなくなる病気だからだ』生後2年で、心臓の細胞分裂が停止するなんて初めて聞いた。びっくりである。しかし、2歳でできた心臓の大きさがそのまま成人や老人まで続くとしたら、幼児にとっては大き過ぎで、成人にとっては小さ過ぎないか?ゴムまりに空気を入れると大きくなる原理が心臓で働いているのだろうか。いわゆる心筋が伸びる状態だ。49歳のときに急性心筋梗塞になり、最初の病院で誤診で帰され、次の日、近所のクリニックで発見・救急搬送されて即ステント入れて冠動脈を広げた私。発見の1日の遅れが私の心筋の30%の壊死を招いた。循環器の医師3人に『壊死した心筋は、早足で歩いて血流を良くすれば、壊死部分が細胞分裂をして増えるのだろうか』と聞いた。3人ともノーであった。福岡センセイの言うとおり、2歳で心臓の細胞分裂は停止しているのだとしたら壊死部分の回復はないことになる。私はてっきり心臓も普通の筋肉同様、細胞分裂を続けていると思い込んでいた。不思議な臓器である。お母さんのお腹の中から始まって、その鼓動を止める死まで昼夜間断なく血液を全身に送り続ける臓器だ。心筋壊死で疲れやすい体にはなったが、70%の心筋があれば日常生活に不便はない。しかも、心臓にはガンは生じないというから凄い。たとえ血流にガン細胞があって心臓の中を流れても心筋には留まらないということだ。


国内の心臓移植手術の現状について報告文書がある。心臓移植研究会がまとめたものである。心臓移植を待ってる人が国内に600人前後、特に子供を中心に多い。もう4年以上待っている人が大半で、1億円以上の寄付を集めてアメリカへ飛び立ち、移植を待つ子供も多い。

http://www.jsht.jp/registry/japan/

飢人地蔵尊由来(博多にて)

タレントのタモリさんが福岡に帰ると必ず寄る「うなぎ屋」があるからと娘と食べに行った。その帰り道、電信柱に「川端飢人地蔵尊」の真っ赤な文字が飛び込んできた。

中にはいってお賽銭を投げて右の壁に掲げられていた、地蔵の由来について文字撮影。以下に記します。実際は右から左へ縦書きです。元々、日本史が苦手で、明治以前の歴史はほぼ音痴に近い私です。

飢人地蔵尊由来

 飢人地蔵尊は上川端町と東中州の一角とをつなぐ水車橋畔に祀られている。

享保十七、八、九年(西暦一七三二~一七三四年)に亘る

所謂(いわゆる)「享保の大飢饉」は二百六十年の今日まで

幾多の惨話悲話を残している。

当時飢饉の為に食物がなくたおれた人々の遺骸を

集めて葬り後人が石の地蔵尊一基をきざんで

其の場所に建て毎年八月二十三、二十四両日上川端町

一、二,三の組が施主となって盛大な施餓鬼供養(せがきくよう)

を行っている。

享保の大飢饉は徳川十五代の幕政中「享保の

改革」とて良政を謳(うた)われた「米将軍」即ち八代

将軍徳川吉宗の治世中に勃発した。

開闢(かいびゃく)以来と言われた、筑前の大凶変であった。

この大凶変の主因は虫害、干害、水害、疫害の

総攻撃で此の世ながらの地獄相を出現したもの

である。飢死者の数は、全国で二百六十四万五千

人に及んだ。実に死屍(しかばね)累々たる惨状は、目をおお

うばかりであった。筑前で九万六千人の餓死者、

病死者を出したが、筑前第一の都会博多はどん

な災害をこうむったか・・・・。

当時博多の人口 男一万一千五十四人、女 八千四百六十二人

約三分の一の六千人が死亡したと言う驚くべき

数字が、この大飢饉の大惨状を物語っている。

その記念物としては、飢人地蔵尊を唯一のも

のとする。享保以来二百五、六十年間 上川端

通地蔵組合の者により、施餓鬼供養をつづ

けてきたもので其の霊験の新たかな事は

年中参拝者の奉じるお燈明の火と線香の

煙が絶ゆる間がないのであります。

         施主 上川端通地蔵組合

 

原文の写真

 

同じ通りにあるうなぎ屋の名店に置かれた鬼 施餓鬼供養の意味?!