古書店事情。

先日、北大に用事があって帰りに私の本が100冊は置かれているだろう古書店・南陽堂を訪ねた。ブックオフとかリサイクル市に飽きてしまって、専門書の多い昔からの古本屋が性に合う。学生時代、急なコンパやデート代つくりにせっせと全集(林達夫作品集)や小林秀雄はじめ哲学書(難しくて読めない)、民俗学(エリアーデなど)主に単行本(箱に入ってる本も多かった)を売った。いい値段で買い取ってくれて、貧乏学生を助けてくれた。焼きそば大盛りを格安で食べさせてくれた中華屋さん同様、ありがたい学生の味方であった。岩波文庫のエピクロスの本を探しに行ったが探せなかった。その代わり、購買したのが「池澤夏樹 読書癖 3冊」1500円、加島祥造「伊那谷の老子」1000円、小林秀雄「感想」350円。特に小林秀雄は全集の上にチョンと置かれていて、値段を見ると350円でご主人に「この全集はバラ売りするんですか?」と聞くと、「しません、全巻で購入願います」とのこと。給料前で無理と諦めた(買っても読む体力・知力もない)。法政大学出版は面白い本を出していて、学生時代に読んだ『魔女裁判』など分厚い専門書を丁寧に出し続けていて、つい最近もルネ・ジラール『世の初めから隠されていること』という本を松岡正剛さんが紹介していたので札幌市の図書館から借りてきたが完読できず、探したがこの本はなかった。フロイトの『モーセと一神教』もそうだが、この種の始まりの歴史・物語りや推理本は読んでいてドキドキする。初めから憶断を持たず読むのは難しい行為で、特にいろいろ大脳に刷り込まれた知識が粉々になる快感は読書のエクスタシーである。たぶん、世の中は、刷り込まれた知識や誤情報、第二次加工情報や第三次まで加工された話で満ち満ちている。最近、それを明確な言葉で論述したのが『ホモ・デウス』(全2巻)で筆者も下巻まで来ている。文章の達人たち(翻訳の上手な人を含めて)に接すると私は感動とともに自分に経験の厚みがなかったり、あまりに古典文学を読んでいない基礎読書に欠ける自分に呆れるのである。ところで、学生時代に古書店に入れた本たちはどこへ行った?蔵書印はしてないし、私が持参した文庫本(岩波中心)もなかった。寂しいと同時に良かったなとも思う。お金も本もきっと運動が好きで、本たちもきっと海を渡って誰かの本棚に鎮座していると思いたい。南陽堂さんんはアマゾンにも出品しているのが、ライバルが多くて儲けさせてくれないとため息をついていた。古本屋さんは店だけでなく郊外に蔵を持ってる店が多い。整理・整頓をしてカタログを作って、全国の古書店ネットワークネットを利用すれば売上増になると思うが・・・・。20年前にススキノの某古書店が北広島市大曲に『本の山』があるとのことで店主に『無償で整理に付き合いますか、お礼はその中から10冊、私の欲しい本をいただくでどうでしょうと』提案した。返事はない。面倒くさそうな店主なので、しないだろうなと思ったが、古本屋の社長は変わり者が多いが、相当な書籍通もいるから面白い。ねらった本は見つからないが、その横にはっと思う本。自分の足で書棚まで行き、手触り・装丁の表と裏を見て・値段交渉し・匂いを嗅いで買うときのドキドキ感は女性のショッピングと同じかもしれない。

現場は疲弊している。

 

お客さんと直接接する人が大量に不足している現実。コンビニの接客、居酒屋の接客、新聞配達、板金工、トラック運転手、ホテルの清掃やベッドメイク、老人ホームの介護士そして営業職である。これ以外にも筆者の知らない職種もたくさんあるとは思う。共通は現場に必要な人が足りないということだ。

私の家の屋根の雨漏りを直してくれた板金会社の社長が話してくれた『若い人が入ってもすぐに辞めてしまう。もっと綺麗な仕事・危険でない仕事・高い給与の同業社に転職して、年寄りしか残っていない。教えてもうちの会社に残らない』。3日間だけ頼まれてホテルのベッドメイクをしたが、筆者は3日でダウン。ヘルニアが悪化して即手術。過酷である。時間との勝負で、シーツを剥がし、枕カバーを外し、宿泊客の残したゴミを片付け、トイレを清掃、終わったらシーツをマットの下に角を埋め込む。土曜・日曜はアジアからの観光客で全館満室。焼きソバ弁当の食べ残しが部屋に散乱して、掃除するおまけまである。居酒屋のママは大学生を上手に使い、同じ大学同じクラブの学生と提携して安定したバイトを確保している。姉妹も使い、居酒屋の人気者である。

団地内のコンビニは、経営者が2店抱えてどちらの店にも顔を出してがんばっているが、人手が足らないと社長みずから店員になる。顔色が少し悪い気もするが、24時間営業をしなくても1時で閉めて電気代を節約するのが賢いとは思う。スーパーの店頭から『募集チラシ』が消えたことはない。市役所の広報では臨時職員募集ばかり、随時募集。子どもと遊ぶ、老人を訪問してお喋りをする、役所の窓口業務、清掃のごみ集めもある。すべて市民と直接接触する大事な業務を臨時職員や市職員の天下り会社へ委託している。図書館運営も外部委託だ。『ボーナスはあるの?』『ない』。本屋や図書の取次が金を出して全国の図書館運営に乗り出す。『税金の節約(人件費減らす)』ことを口実にプロの視点で図書運営と市へプレゼしている。これまで5時で閉館していたのを夜8時まで開館である。便利にはなったが、そこで働く職員は市職員の労働より拘束時間と待遇面で過酷かもしれない。

そして、どこの現場でも発生している『老人のクレーマー』対応である。現役のときにそこそこ尊敬もされていただろう人たちが定年になり、自宅でもてあまされて、イライラ感募り、そのはけ口として現場の若者たち、主婦へ不寛容な言動を繰り返す。コールセンターへ向かう人もいれば現場で毒を吐くタランチェラもいる。見ていると、それを言ってる年寄りの人相の悪いこと。そういう人には『鏡を出して自分の今の顔を見せるのが薬になるかもしれない』。疲弊する現場は続く。

「病患はキリスト教徒の自然の状態である」(パスカル)

フランス学者渡辺一夫さん著『寛容について』(筑摩197p)で(狂気について)の項目で冒頭に引用されている。パスカルの言葉で、数学者にして求神精神のパスカルがキリスト教徒自身の宗派皇宗で殺しあう現場と世の中を生きていて述べた感想。しかし、別に狂気はキリスト教徒の専売特許ではなくて、人間である以上、狂気と無縁で生きている人はいないぞと渡辺一夫さんは言いたいのだ。何かに夢中になっている精神状態は、傍から見たら、普通に『狂気に取りつかれている』ように見えるし、事実、狂気の中にいる。ブログを書く行為も他人が見たら『狂気の中に入っている』と思える。正常と異常、普通と狂気の境は曖昧。ある観念(神や教えや思い込み)、ある人(偶像やカリスマ)、ゲーム、仕事(売上げやフィニッシュ)、恋(異性ほか)、スポーツのイベントと応援風景は全く関心のない人には異常や狂気に見えるのも本当だ。そうであれば、世の中は狂気のON/OFFが日常繰り返して起きているのが現実であることをまず認識して『天使になろうとして豚にならないよう』気をつけて生きましょう・・・というメッセージが渡辺一夫さんの本にはある。狂気なくして文化やスポーツも野心も生まれないのだ。何度も見ていると、それが当たり前になってしまいやすい。16世紀ヨッロッパが大陸の人口増もあって、地球のあちらこちらへ物産を求めて、航海へ出て行ったが、これも狂気以外の何者でもない。巻頭パスカルの言葉『病患はキリスト教徒の自然状態である』がリアリティを持って筆者には迫るのである。『平和とか安静とか正気とかは一応好ましいものとしていますのに、この好ましいものが少し長く続きますと、これに飽きて憂鬱になったり倦怠を催したりします。そして、再び次の(狂気)を求めるようになるらしいのです』(199p)。現代世界は『退屈病』という名の病に冒されているともいえます。そしてそれで一儲けを企みます。そういえばパスカルの『パンセ』に『所詮、人間のしていることは、気の紛らわしに過ぎない』という名セリフがあったことを思い出した。なんだか、すべてが虚無の海に流れて行くようであるが、一面の真実を突いている。『ある人は(狂気)なしでは偉大な事業は成し遂げられない、と申す人々もおられます。私は、そうは思いません。(狂気)によってなされた事業は、必ず荒廃と犠牲とを伴います。真に偉大な事業は、(狂気)に捕らえられやすい人間であることを人一倍自覚した人間的な人間によって、誠実に執拗に地道になされるものです』(200p)